知ったかジレッタントのお祭り

ときに偉そうに、ときに悲しげにカルチャーを綴ります

珈琲美学 それに小石原焼

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もう何年になるだろうか。

 

家の近所にあった、珈琲美学に通ったのは。

 

学芸大学駅の近くにある、珈琲美学は、そのお店の姉妹店と聞いていた。

 

珈琲美学というのは、浅煎りを専門にするコーヒー専門学校が暖簾分けした工房を指すそうだ。

 

この場所(写真参照)に開店したのは、昭和40年代後半から昭和50年代の後半だったと記憶しているけど、よく思い出せない。今みたいにコーヒーショップがたくさんあるわけではなかったから、近所でも話題になった。「砂糖もミルクも出さない喫茶店が出た」と、噂になったものだった。

 

深煎りのコーヒーが主流の、いわゆるセカンドウエイブの前は、当然ながら街の喫茶店の独壇場だった。深煎りのコーヒーが殆どなかった中でも、珈琲美学のコーヒーの浅煎りは本当に独特だった。生豆の味がするというか、苦味の中に甘みがある。あっさりしているけれど、深い味がする。そんな感じの味だった。

 

筆者も、その味を確かめるために何度も店を訪れた。

 

時は流れて、スマホが普及する前後のことだったろうか。飲食店を来店者が評価する、人気サイトに、軒並み低評価が掲載され始めたのは。

 

その否定的な評価はかなりな数に上った。

 

端的にいうと、「豆の量をけちっているから、薄いコーヒーを出す」というものだった。

 

ちょうど、ファストファッションが脚光を浴びた矢先のことだった。

 

そういえばその頃、私の知り合いに、ライダースジャケットを生まれて初めて購入した人がいた。某で買ったのだが、彼はライダースジャケットを開発したのは某だと信じ込んでいるようだった。否、そう信じたかったのかもしれない。

 

 

そんなこともあり、あんなこともあり、何が本格的なものなのか、誰もわからなくなった時代に突入したのだと思う。

 

否定的な口コミが掲載されて何年か経ったある日、カップに注がれたコーヒーの色が濃いのに気付いた。

 

あらかじめ、卓上にセットされたコーヒーカップに、店主が淹れたてのものを注いでくれるのだが、味同様、見た目も本当に薄い茶色が特徴だった。

 

しかし、この日は、明らかに濃い色をしていた。

 

口に含むと、色と同じで濃い味がした。

いつもと味が違う旨を伝えると、「豆を多くした」と店主は答えてくれた。

 

それから、閉店するまでの間に飲む機会に恵まれたコーヒーの味は、ほとんどが濃い味だった。

 

しかし、時々、往時を彷彿とさせる色と味を楽しむこともできた。

 

店主の心の葛藤を映し出していたのかどうかは、問うまい。

 

 

店主との語らいも、また楽しみのひとつだった。

 

いろいろ聞いたなかで、一番印象的だったのは、開店当時から使っている、そろいのコーヒーカップについての話だった。

 

福岡にある小石原焼のものだそうで、窯元は聞かなかったが、代替わりしたため、今では絶対に手に入らない出来映えの品物とのことだった。江戸時代から続く産地で、(民芸運動で有名な産地のひとつの)小鹿田焼とは兄弟関係にあるとネットの情報で知った。

 

店主は、「益子焼は、小石原焼の土を運んで始まった」と話してくれた。

 

閉店する日、店主は、「好きなカップを選びなさい」と、2客譲ってくれた。

 

今でも、カップボードにしまってあるが、割れないように、なるべく使わないでいる。

 

真価が分かる人達に惜しまれながら閉店した後も、往年の佇まいをそのままに残した店舗建物は存在している。そんな、名残惜しい光景を今日も目の当たりにした。

 

 

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某氏のオフィス

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某氏の部屋です。

いつものままの、飾り気ない姿らしい。

デジカメが壊れており、スマホで撮ったので、あまりよく撮れませんでした。

 

蚤の市やネット、それに平塚のショップ「TALO」で購入したものの数々。

 

「TALOは平塚に越す前から通っていた」と某氏。

 

 

ランプが好きで結構集めているそうですが、効果的なライティングは難しいとのこと。

 

何事も精進精進。

川内倫子と広告写真

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Ginzaの中綴じにあった、川内倫子の写真がとてもインパクトがあった。

 

 

ファイスブックのGINZAの公式ページにあったのを上に貼ったのだけれども、彼女の写真の良さがまったく出ていないので、どこがすごいのかをわかってもらうのは難しいと思う。

 

端的に言うと、川内倫子の美徳である「光」がうまく出ていない。

 

jpegファイルではないので、まあ仕方がないかも。

 

スキャンしてもダメかな。

 

川内倫子は、広告写真も撮っていて、いろいろな雑誌で見かける。この間も、ボルボの新車(V40)を撮ったのを見た。

 

でもやはり、芸術写真なんだよなあ。

 

森山大道があるカルチャー誌で、(商品としての)スニーカーを撮っていたのを思い出した。

 

共通しているのは、芸術の側面が強くて、広告写真に欠かせない「物欲をそそる」ようなものになっていないこと。

 

自分の仕事の話になるが、以前、舞台芸術を得意とするカメラマンにブツ撮りを依頼したことがあったのだけれど、

 

やはり「作品」になってしまったのだった。

 

もちろん、クライアントは不機嫌になった。

 

 

でも、最近「物欲を誘わない」広告写真って結構多いような気がする。アーティスティックなんだな。

 

アート=広告、という構図になりつつあるのか、どうなのでしょうか。

尾崎豊の太陽の破片

youtu.be

 

昨日、テレビで尾崎豊の「太陽の破片」の映像が流れた。

 

1988年に「夜のヒットスタジオ」に出演したときの演奏のほんの数秒のシーンだった。

 

 

私はこの日、偶然にも番組を見ていた。

 

 

今から25年前、私が24歳のころだった。

 

尾崎豊を初めて知った瞬間だった。

 

 

そのころは、毎日ジャズばかり聴いていた私にとっても

 

この歌は衝撃的だった。

 

 

 

 

覚せい剤取締違反で逮捕された翌年、再起をかけた曲だったという。

 

 

彼の生涯においては、ただ唯一のテレビ出演だった。

 

 

 

 

その4年後の1992年、路上で刺殺されて帰らぬ人となった。

 

 

「太陽の破片」は、生涯に作った最後の曲となった。

 

 

 

 

編曲を担当したのは本多俊之で、自らソプラノサックスを吹いている。

 

 

ジャズのミュージシャンとしては、ポップスにおける歴史的遺産という意味では、菊地成孔をしのぐ実績を残したと思う。

洋服のことなど⑤

最初の話に戻りたいが、もうこれで十分だと思う。

今回の話題に関して言えば、何が重要で何を話すべきかというのは、本当は真に意味があることではない。

アメリカンカジュアルウェアの変遷があり、現在の状況がある。それで十分なのだ。

今書いたことは、表向きは業界ではタブーであると思う。

ただ、それは素晴らしい意図的な誤謬(intentional fallacy)なのだ。同時にenigmaでもあり続けている。

虐げられたものの神話(myth)は、闇の中で相互に影響を与えながら、高貴なものへと昇華していく。

これこそが、ワークウェアに代表されるアメリカンカジュアルウェアに見られる寓意性であり、精神性(Geist)なのである。

洋服のことなど④

大学4年の終わりの長期休み、つまり1987年に、アメリカ旅行に行くことになった。

グレイハウンドで西海岸から東海岸に抜ける計画を立てた。

さてアメリカだ。

この旅行には、いくつかの目的があった。

だが、ひとことで言うならば、アメリカを一回見たかったというのが本当のところだ。

※ この旅行では、多くの収穫があった。だが、ここでは衣料についてだけ書きたいと思う。タイトル通りに、洋服のことを書かないと焦点がぼやけてしまうので、他のことは割愛する。

最初に着いたのは、ロサンゼルスだった。ハリウッドのダウンタウンまでバスで行き3泊した。

近くのカジュアルウェアショップに行くと、日本の店とまったく勝手が違って驚いた。ラインアップが完全に異なっているのだ。カジュアルウェアというよりも、バスケットボールやベースボールなどのアスレチックウェアとしての衣料であって、ジーンズも当時流行りのデザイナーズジーンズだけをそろえていた。

ためしにリーバイスの501を探してみた。リーバイスはサンフランシスコでの創業なので、ロサンゼルスでも流行っていると思った。

デパートやショッピングモールに行ってみたが、見つからなかった。どの店も、デザインされたジーンズだけを置いていた。

さすがに「これは様子がおかしい」と思った。

サンタモニカに行こうと思い、バス乗り場に向かう途中にふらりと寄った店で、偶然に501を見つけた。ところが、この店は、実は洋服店ではなかった。501の隣にはスパナやのこぎりが置いてあった。ランプやロープもある。

あとで知ったことだが、この類の店は「サープラスショップ」と呼ばれるらしい。

次に向かったのが、グランドキャニオンだった。

グランドキャニオンは崇高で気高かった。

スーパーに買出しに行くと、デイパックやマウンテンパーカーが売っていた。だが、ファッションというよりも、テントやシェラフと並べてあり、あくまでも登山用品のひとつとしての商品紹介だった。

谷底にあるキャンプ施設のファントムランチまで降りていくことに決めた。行き交うアメリカ人は、皆フレンドリーで楽しかった。

彼らの格好といえば、ネルシャツにジーンズや、パーカー、デイパック、ワークブーツで、日本で取り上げられるアメリカンウェアのオンパレードだった。少し安心した。

グランドキャニオンを出て、フラッグスタッフで一泊した。

フラッグスタッフは静かで奥ゆかしく、良い場所だった。

ここでも、サープラスショップで501や霜降りのスウェットシャツを見つけることができた。隣には、やはりバケツやロープが置いてあった。

オクラホマで一泊し、インデアナポリスで2泊したあと、イリノイ州に入る。

本当のことかどうかは分からないが、「アメリカの大手新聞社の新人教育では、『イリノイ州の主婦に読ませるように記事を書け』とのアドバイスを上司から受ける」と本で読んでいたため、試しにイリノイの小さな町に宿泊しようと思った。典型的なアメリカの家庭が、イリノイにあるという考え方だ。インディアナからイリノイにかけては、アーリーアメリカン調の白い家が並んで風光明媚だった。

そこで選んだのが、Rock Fallsだった。

その理由は、歌手の竹内まりやが、留学機関であるAFS(アメリカンフィールドサービス)を通じて、高校留学した町であったからだ。私は彼女の音楽性を買っていて、その留学経験が後の音楽活動に大きな影響を与えていると思っていた。このため、一度訪れてみたいと思ったのだ。

グレイハウンドの停留所から少しはなれたところにあるモーテルに泊まった。隣にあるイタリアンカフェに行くと、女主人がこう尋ねた。

「あなた、ヒッチハイカーなの?」

どうやら私の服装を見て、ヒッチハイカーと思ったらしいのだ。

私の服装といえば、ウールリッチのマウンテンパーカー、その下にカーハートのブラウンダックのジャケット、霜降りのスウェットシャツ、リーバイスの501、レッドウィングのポストマンシューズだった。

私にとっては最高に「ヒップ」な格好だった。

もちろん、今でもその服装は「悪くは無い」と思う。

ところが、イリノイの主婦は、私の服装をヒッチハイカーと判断した。

今度は、映画館がある街の中心部に向かった。

スポーツショップを訪ねた。記念にスウェットシャツを買ってRock Fallsとプリントしてみたいと思ったのだ。店主は、ショッピングモールにある店に行くようにアドバイスしてくれた。

ショッピングモールは、現在の大型店舗とうものではなく、小さなパパママショップが寄り集まった雰囲気の良い場所だった。

紹介してくれた店には、Tシャツ類がたくさんあった。女主人に尋ねると、ロゴをプリントできるから、好きなスウェットシャツを探しなさいということだった。彼女は、お勧めの無地の品物を何枚か出してくれた。

どれも、パステルカラーだった。

私は棚から、霜降りのスウェットを選んで、プリントを頼んだが、彼女はとても嫌な顔をした。

私は、その反応にとても驚いた。

霜降りのスウェットは、運動するときに、文字通り汗をかくための専用の服装だということを後で知った。むしろ、パステルカラーのスウエットの方がファッション性が高かったのだった。

その後、中心部に向かう。なぜか中心部に、鉄工所があった。そこで働く労働者たちが小休止で、通りに面したカフェに並んでいた。何と、彼らの格好は、日本で流行していたものだった。とてもカラフルなワークシャツに、ペインターパンツや良く色落ちしたジーンズ、ワークブーツ。とくにワークシャツの色合いは、素晴らしいセンスだった。日本の古着屋でも、見つからないような良い色使いだった。

その後の街で通りかかった工事現場でも、同じような光景に出くわした。

そうだ。

日本でヘビーデューティーと言われているファッショナブルな服装は、登山着であり、ワークウェアであり、それ以上の意味も、それ以下の意味もなかった。

普通のアメリカ人にとっては、そういった格好が、あまりにも陳腐であり過ぎて、ファッション性を連想する対象であることはなかったのだ。

ロックフォールズを出てグレイハウンドでシカゴに向かう。食事休憩で泊まった食堂では、周辺の農家のひとびとが集ってコーヒーを飲んでいた。50歳から70歳くらいまでの白人男性たちで、日本ではオシャレに敏感なひとたちがかぶっているキャップを身に付けていた。

70歳と思える老人は、ヒッコリーストライプのカバーオールに、見事な配色のワークシャツ、ワークブーツを身に付けていた。

まさにリアルアメリカだった。

だが彼らは、自らの格好をファッションだとは思っていなかったのだと思う。

その後、ニューヨークで知り合った英国人と話しをしたときに、リーバイスの話題になったのだが、知識の豊富さに驚いた。ロンドンでもリーバイスのビンテージは相当な値段だと言っていた。彼は、日本人の間でも、リーバイスなどのビンテージジーンズが高値で取引されていることを知っていた。アメリカ人たちが、その本当の良さを理解していないということで二人の意見は一致した。

ニューヨークでは、古着屋を見つけたがなかなか見つからなかった。グリニッチビレッジの近くで一軒だけようやく見つけることができた。日本の古着屋とは違い、90%以上の商品が50年代の洋服だった。

これも後で分かったことだが、日本の古着屋というのはアメリカでは存在しておらず、日本で古着と言われているものは、教会のバザーや自宅のガレージセール、それにスリフティーショップといわれる店で売られているようだった。スリフティーショップというのは、今の日本でいうリサイクルショップのようなものらしい。

つまり、日本で売られている古着はビンテージクロージングを意味しなかったのだ。旅行当時の1987年では1970年代の衣服も古着に相当するわけだが、そういった概念が存在しなかったようで、路面店にもスーパーにも売っていなかった。

もちろん、アメリカでも好事家が一部に存在し、そういった取引をしていなければ、日本での古着ビジネスも存在しなかったはずである。ところが、大きな都市には、目だった古着を扱うスポットはなかったのだ。

ニューヨークでは、ロックフォールズと同じ格好をした。

ソーホーやグリニッチビレッジがあるので、ここならば、理解があると思ったからだ。

セントラルパーク近くの屋台のホットドック店でホットドックを買おうとしたときのことだ。店主はヒスパニックだった。数人が並んでいたが、私の番になると、彼はとても嫌な顔をした。しかめっつらをして、口も利かずにアゴで合図をした。これも後で分かったことなのだが、浮浪者が私と同じような格好をしているようだった。

この直後に、ブレザーにカシミヤのセーター、チノパンツ、ローファーを着ていくと、店主は「サー」付けして私を歓待したのには驚いた。

近くの上品なカフェに入ると、ウエイターにアゴで案内されて、店の奥にあるゴミ箱の近くの席に通された。この時にも、あとでブレザーを着用していくと、通りの面したガラス窓の良い席に案内してくれた。

服装でまったく扱いが違ったのだ。

そのとき、ふと思ったのが、私の肌が浅黒いからだろうかということだった。

だが、ジョージタウンでのパーティーで知り合ったテキサス出身の白人男性も、着てきた洋服が場違いだったのでワシントンDCでは疎外感を受けたと言っていたのを聞くに及んで、やはり服装の問題ではないかと思った。

彼はウエスタン調のワークシャツを重ね着して、ジーンズとスニーカー姿だったのだ。

洋服のことなど③

ドレッシーな服ならば、ビームス、ミウラ&サンズ、シップス。カジュアルな服ならば、バックドロップ、レッドウッド、サンタモニカ。扱う店は限られていたが、アメリカ衣料の良品を多くそろえていた。

1980年代前後になると、サーフィンブームが訪れ、サーファールックも流行した。

私は、サーファールックやドレッシーな衣料よりも、カジュアルウェアを好んで着るようになった。

ボトムスは、チノパンツか、リーバイスの501。トップスは、POLOラコステのポロシャツ、ヘインズやフルーツオブザルームのTシャツ、ボタンダウンシャツ、ダンガリーシャツ、ネルシャツ、グレーのスウェットシャツ、カーハートのジャケット、ウールリッチのマウンテンパーカー、米国製のウインドブレーカー、MA-1ジャケット、リプロダクトのタンカースジャケットなど。足元は、トップサイダーのモカシンかキャンバスのデッキシューズ、スタンスミス、コンバース、レッドウイングのポストマンシューズ。

今と比較すると、どれも高価だった。

バッグは、USポストの革製やジャンスポーツのデイパック、キャンバス製で革の取っ手のツールバッグ、USエアフォースのヘルメットバッグなどを購入した。

現代風に表現すると、どのアイテムも「ヒップ」に思えたものだった。

当時は、「ワークウェア」という色分けは強調されておらず、アメリカ製の衣料(カジュアルウェア)という認識だったが、図らずもワークウェアが多くを占めていたようだ。いずれにせよ、先に挙げた店に並んでいた品物の数々だった。

何度も書くが、自分でも「ヒップ」だと思い、洋服好きの知り合いにとっても、「良い趣味」と言われるワードローブだった。

洋服のことなど②

00年の中盤にかけて、日本のカジュアル衣料業界の周辺で変化があったことは、カルチャー関連のメディアに詳しい。

雑誌「PEN」は、確か2006年だったと思うが、日本製のファッション衣料を特集した。

日本製のファッション衣料が、ヨーロッパの見本市で、品質の高さから評判を博していると書いてあった。

特に、日本の有名ショップブランドが作ったネルシャツを、ヨーロッパ人のバイヤーが微笑みながら、仕立ての具合を確かめることが珍しくなかった、と記してあった。それは、「良く分かっているじゃないか」という意味の微笑みだったという。

その年、つまり2006年に、ネペンテスの鈴木大器氏が、アメリカのカジュアルウェアの老舗であるウールリッチのディレクターに起用された(この契約は2010年まで続いた)。

海外に話題を移そう。

同じころ、アメリカでカジュアル衣料業界にたずさわっていた、スウェーデン人の若者が、母国でアメリカの古着を販売する店を出したところ、スウェーデンの若者たちの列が出来たらしい(同じくPENの情報)。

2000年前後から、ハリウッドスターたちの間で、「ビンテージ」の衣料が流行し始めたことも記憶に新しい。

ハリウッド映画といえば、ミッキー・ローク主演の「レスラー」では、ミッキー・ローク演じる主人公が愛娘の誕生日に贈るプレゼントとして、「ビンテージクローズ」を扱う店に行って、古着のPコートなどを購入するシーンがあった。

そして、直近の話題でいえば、ニューヨークタイムズ紙によって、ファッションデザイナーのラルフ・ローレンがインスパイアを受けている媒体として雑誌「Free&Easy」を取り上げていた。

e-bayでは、60年代に作られた古着の霜降りのスウエットシャツに60ドルもの値段が付けられている。

とりとめのない話題を、羅列したようにみえるが、私にはそれぞれに深い意味を探ることができる。

そのためには、日本のカジュアルウェアの黄金期が始まった1970年代まで遡る必要がある。

平凡出版(現・マガジンハウス)が雑誌「ポパイ」を発行したのが1976年だった。ポパイは西海岸をテーマにしていた。ほぼ同時期に、雑誌「メンズクラブ」がアメリカ東海岸の洋服を取り上げ始めた。

両方とも、クラスメイトから教えられて興味を持った。私は中学2年生にして、アメリカカジュアルファッションの洗礼を受けた。

すべてが生まれて始めて見る品物ばかりだった。

ナイキ、コンバースジャックパーセル、トップサイダー、レッドウィング、リーバイス、リー、ウールリッチ、シエラデザイン、パタゴニア、LLビーン、コロンビアデザイン、オービス、アバークロンビー&フィッチなど、多くの輸入商品が紹介された。

といっても、身に付けている人に町で出くわすことは、皆無だった。それだけ珍しく高価だったからだ。

VANジャケットが純国産の東海岸クロージングとすると、1970~80年代は、両海岸を網羅した輸入物の時代だったと言えよう。

モード系のファッションと、アメリカ衣料が厳密に区別されている時代だったという点において、現在の状況とは事情が異なる。現代は、境界線があいまいで、相互に越境しているような感じを受ける。

最近知ったことだが、この当時のアメリカ衣料の日本進出には、アメリカの商務省が後ろ盾になっていたそうだ。

映画やテレビドラマ、音楽、食べ物、文学...

幼少時からアメリカ文化に囲まれていたという意味においては、アメリカの占領政策の申し子のひとりとして育った。

それはともかく、ヘビーデューティーという言葉を使ったのが、ポパイだったのか、メンズクラブだったのか、記憶が定かではない(確か、ポパイは当初「ラッギドルック」という紹介をしていたような記憶がある)。

ほかには、プレップスクールの学生の服装を取り入れた、プレッピールックというものも紹介された。アイビーリーグの服装の評判の高さは、VANジャケット以来続いていた。

服装だけではなく、ジョギングやクリケットなどのスポーツも含めて、アメリカのある階層(つまりミドルクラス以上)のカルチャーを網羅した取り上げられ方だった。メンズクラブでは、東大卒でハーバード大学講師を務めていた板坂元氏がエッセイを綴っていた。

LLビーンのハンティングジャケットは、ヘミングウェイが着用していたという文脈で、あるいはまた、ヘンリーフォンダ主演の「黄昏」で、ヘンリーフォンダが着用していたことも強調されていた。

つまり、単なるファッション衣料という括りでは捉えられない性格を持ったものとして紹介された。

一連のアメリカ衣料のムーブメントは、1980年代に入ると、「日本で流行しているアイビールックは滑稽だ」という批判まで、あるアメリカの新聞紙上に出るほどの盛況となった。

洋服のことなど①

本質を理解できないひとたちには、何を言っても無駄であろう。

彼らは、本能のおもむくままに扇動する。ひたすら情緒的であり、もっぱら劣情に支配される民である。

物欲に支配され、どうしてよいか分からずに右往左往する。

物の背後に潜む、精神性や歴史を知ろうとはしない。扇情の虜だ。

私は、洋服のことなど書くべきではないと思っていたが、そうしたひとびとと自らを差別するためにこの一文を

したためることにした。

物には、精神が宿っている。精神とは、何かと問われると、それは物自体が有している歴史にはじまり、霊的な感性を示す。

私はそのように信じてきたし、今でも信じている。

オードリーヘップバーン

オードリーアステア

数年前にアメリカの雑誌に載っていた(LIFEだったと思う)1枚の写真は、表現しようのないものだった。

これが、その写真だ。

ハリウッドスター2人(オードリー・ヘップバーンフレッド・アステア)のスナップ。パリの恋人(Funny Face)のリハーサルと思しき場面で、一切の商業性を排しているのは素人目にも理解できる。

写真集は、Joel Meyerowitzのcape lightしか購入したことがなく、写真評論などは読んだことがない。そのため、正直なところ私には写真を語る知識や技能はない。

そうはいっても、少なくとも日本では注目を集めなかった写真であるため、取り上げる価値があると思う。

とても神々しい被写体だ。

精神性に溢れた躍動感を捉えている。

華やかな銀幕の裏に潜んだ、覗いてはならない瞬間が、ここにはある。