今年2022年の6月に長野に小旅行をした時、セゾン現代美術館に立ち寄った。
当然だけれども、この展覧会の会期はとっくに過ぎている。
タイムリーな記事とはならなかったが、いつものように散漫に書き連ねるのではなく、書くべき何かが見つかったような気がして、PCに向かった。
といっても、大した内容になりようもないが。
画像は、撮影が許可された作品に限っている。コレクション展示もあったが、撮影は不可だった。
エトキは付けずに、以下に作者を記す。
フィギュアのような彫刻は、高嶋英男の作品。
壁面を覆う巨大な絵画は大小島真木の手による。
縫いものの作品は伏木庸平。
キャンバスのペン画は、増子博子。
どれも圧倒された。
毎年通っているが、ここ数年の企画展示の中では秀逸だったと思う。
コレクション展示の際に、マグダレーナ・アバカノヴィッチの半人体型のオブジェが並んでいる部屋では、高嶋英男による人体型の彫刻が飾られていた。
その相違と親和性に驚かされた。
堤清二さんのこと
創立者の堤清二さんが亡くなったのは、2013年のことだった。
それ以来、堤さんを偲ぶ展示会がこの美術館で開かれたのは、記憶が確かならば2回だったと思う。
亡くなった翌年に回顧展が開かれた。この時は、堤さんの書斎を再現するように、白い布が空間を遮る形で、実際に使われていた机や椅子、ペン、便箋、蔵書などが展示されていた。絵画や彫刻、オブジェなど、恐らくは堤さんが愛で、収集したコレクションで埋め尽くされた。
この時は、堤さんの文士、文人としての側面が強調されていた。
そして、2017年には「堤清二 セゾン文化、という革命をおこした男。」というタイトルの展示が行われた。
2回目の回顧展は、最初の展示とは趣がまったく異なっていた。
箪笥・キャビネットや行李、文箱など、十六菊花紋の調度品の数々。いずれも真っ白なものだった。
十六菊花紋は、言うまでもなく天皇家の家紋である。
古代には、中東および一部の南アジアの王侯貴族も十六菊花紋を家紋にしていた。
皇室に繋がりのある人に聞いたら、許可なく購入することはできず、また展示することもできないはずという。
撮影はいずれの展示も不許可だったのが残念だ。
エントランス右手には、横尾忠則の絵と三島由紀夫の書、それに楯の会の制服が展示されていた。
楯の会の制服は、三島由紀夫が堤さんに電話して、仕立てを依頼したと説明されていた。
フランス大統領のドゴールの衣装のデザイナーがセゾンに在籍したいたという。
※ ちなみに、市ヶ谷の自衛隊の駐屯地で、楯の会に属していた三島由紀夫がバルコニーで自衛隊員を前に演説し、自刃(切腹)し、森田必勝が介錯(首を切る)したという。この時のメンバーは皆、この制服を着ていた。
横尾忠則の絵画は、記憶が確かならば、滝と昇天がモチーフだったと思う。
このエントランスの展示は圧倒的だった。
楯の会の制服がセゾンの仕立てということは、美術関係者にとっては有名な話らしい。
受付を済ませて、細い廊下を歩く。
そこにも十六菊花紋の筆箱などが展示されている。
その横に、堤さんが日本共産党員だったことを明らかにする記録が展示されていた。
さらに、歴代の首相との交友関係が写真とともに記されていた。
天皇家と共産主義、そしてセゾングループという資本主義、それに政治活動。
これらが、渾然一体となって展示されていた。
共産主義と資本主義。
このbinary=二元の概念が、堤さんの奥深いところに宿っていたのだろう。
「ミカドの肖像」を彷彿とさせる展覧会になったと思う。
セゾンの制服を着た、三島由紀夫は市ヶ谷の駐屯地で「天皇陛下万歳」と叫んだ。
「天皇陛下万歳」と叫んだ武士は皆無だろう。
天皇と共産主義、共産主義と民主主義という、二項合一/対立なども含めて、
明治時代以降と、それ以前の時代を違(たが)える象徴ともいえる。
目に見えないご縁があると感じ、堤清二を「さん」付けで呼んでいる。
1990年代の半ば、渋谷パルコの地下にある洋書店「LOGOS」には、良く通った。
ちょうど、ゲルハルト・リヒターの”Landscapes”が出版されたころには、
ガラス製のディスプレイに飾られていた。多く仕入れていたのだろう。平積みになっていた。
フォトペインティングがどんなものかも分からなかったが、この時初めてゲルハルト・リヒターを知った。
建築家の洋書もたくさんの品揃えだった。
日本人建築家の中で一番在庫が豊富だったのが、TOYO ITO(伊東豊雄)だった。
インテリアデザイナー片山正通の初期の作品に、南青山のINDIVI Cafeがある。1997年には良く通ったものだ。そして、2000年にセゾン系列の渋谷シードの最上階にオープンしたカフェを設計した。ここも良く通った。近未来的な内装で、食器やカトラリーもそんな感じだった。
2000年代の終わりごろに吉祥寺の音楽喫茶に良く通った。
ある日、店主が「堤さんがこの間、ワインを持参して訪ねてくれた」と話してくれた。
店主は、堤さんが現役だったころの部下で、ヨゼフ・ボイスの初来日も企画した。もちろん、ボイスの来日はセゾングループが大きく絡んでいた。
店主は「ナムジュンパイクのビデオアートは我々が知恵を授けた」と語っていた。
その後、堤さんは、その音楽喫茶を何度か訪ねたという。
知人のアート関係者は、現セゾン現代美術館が、高輪美術館として軽井沢に移転した際のオープニングレセプションに訪れ、ゲストとして招聘されたジョン・ケージの演奏を生で聴いたと言っていた。
堤さんが亡くなった翌年の春に、セゾン現代美術館を訪れた。
「偲ぶ会」が催されていた。関係者のみの招待だったようだ。
門に近寄ったところ、正装姿の関係者が現れ、「こちらにどうぞお入りください」と
手招きしてくれた。
気が引けて、失礼させていただいたことを今でも良く覚えている。
恐らくは、まったく相容れない思想信条の筆者に、セゾンは唯一無二の文化を提供してくれた。
そのことは間違いないと思っている。