ジレッタント 彷徨と喜憂

物見遊山が好きです

竹内まりや そのファンであり続けること

 

1980年春

 

 

 以前付き合いのあった音楽家に宛てた2019年元旦のメールには、竹内まりやへの尊敬の念が記されていた。

 

 

 

 何気なく読み返した後、「もう3年が経ったのか」と思った。

 

 

 

 

 2019年は、竹内まりやの40周年記念の年だった。

 CD「Turntable」がリリースされ、NHKで特集番組が組まれるなど、華々しい年になった。

 

 



 

 

 2019年は、筆者がファンになってから39年目の年となった。今年2022年は、42年目となる。

 

 

 

 

 

 少しだけ昔のことを思い起こしてみた。

 

 

 

 

 

 昭和の時代、最寄駅に小さなレコード店があった。

 

 

 

 

 

 クラシックや演歌、タンゴ、ロック、ポップスと幅広い趣味を持つ店主が経営している店内には、店主が好む新旧のレコードがかかっていた。

 

 

 

 

 

 1980年の春、16歳だった筆者は、下校途中にこの店を訪れて、いわゆるレコード漁りを始めた。

 

 

 

 

 

 

 その時、新譜のレコードが流れた。英語の歌だ。耳慣れない声だが、洗練された音だった。しばらく耳を傾けた。なんと言ったら良いのだろう。録音も日本のレコードとは違うように聴こえる。すべてが、とても新しい。

 

 

 

 

 3曲目に入る前に、そのレコードを持ってレジに向かった。

 

 

 

 

 

 「良いでしょう」と店主は微笑んだ。

 

 

 

 

 

 竹内まりや3枚目のLP「Love Songs」だった。

 

 

 

 

 

 テレビ番組で「セプテンバー」や「不思議なピーチパイ」を歌っているのを観たことはあったが、アルバムを聴いたのは初めてのことだった。

 

 

 

 

 

 

 まもなく、2ndアルバム「University Street」1st「Beginning」を購入して聴いた。

 

 

 

 

 

 

 当時の竹内まりやは、毎年ほぼ1枚のペースでアルバムを出していた。購入した3枚のアルバムにも、当時はレコーディング費用が相当かかったと思われる、ロスアンジェルス録音が含まれている。

 

 

 

 

 

 

 いずれのアルバムからも鮮烈な印象を受けた。

 

 

 

 

 

 圧倒的な存在感だった。

 

 

 

 

 

 アイドル不在の時代にあって、いくぶん下品な学園アイドルの扱いを受けた不遇が、ネットが普及した2000年代以降、方々で語られたことは記憶に新しい。

 

 

 

 

 

 25歳の気鋭のシンガーに対して、筆者は16歳。9歳の年齢差もあり、彼女をそうした目で見たことは一度もなかった。

 

 

 

 

 

 ファーストアルバムからレコード制作に携わっていた、レコーディングディレクターの宮田茂樹は、1980年にこう記している。

 

 

 

 

 

 「もう2年以上も前のこと。レコーディングプロデューサーの牧村(憲一)氏が嬉々とした表情でこう言ったのです。『宮田くん、やっと見つけたよ』と。それがまりやとの出会いでした」 

「まりやがいてくれたお陰で、僕たちの夢であった新しい日本のポップスの夜明けが迎えられたことをとても感謝しています」

 

 

 

 

 

 宮田茂樹と牧村憲一は、日本ヴィクター傘下のRCAレコードと契約しており(宮田茂樹は社員)、竹内まりやEPOのレコードデビュー、大貫妙子(「ミニョン」以降)のLP制作を手掛けた。

 

 

 

 

 牧村憲一は、シュガーベイブのデビュー、解散後には、山下達郎大貫妙子のソロデビュー作を制作した。また、フリッパーズギターを世に送り出したプロデューサーでもある。

 

 

 

 

 

 

 当時、高校生だった筆者は、宮田、牧村両氏が制作した、大貫妙子EPOのアルバムを購入して良く聴いたものだった。両氏の関与はともかくとして、「良い音楽」と感じる思いが何よりも優った。

 

 

 

 

 

 現在ではシティポップという名称で括られ、大々的なマーケティングによって、たくさんのリスナーに歓迎されている。

 

 

 

 

 

 

 しかし、当時は正直なところ、竹内まりやについては、シングル盤はともかく、LPを持っている生徒はクラスで1人か2人だった。名前は知っているが、そこまで真剣に聴くという同級生はいなかった。

 

 

 

 

 

 もう少し踏み込むと、音楽を無料で聴くことができなかった、という時代背景も大きかったと思う。

 

 

 

 

 

 グーグルのおすすめ検索やYouTubeアルゴリズムでは、竹内まりやのカウンターパートが松原みき。杏里、アマゾンのおすすめでは、中島みゆきとなっている。

 

 

 

 

 

 音楽の正しい聴き方というものは世の中に存在しないと思う。

 

 

 

 

 

 しかし、筆者は、竹内まりや大貫妙子EPOが自然な流れだと考えていた。それ以外に吉田美奈子も熱心に聴いていた(文脈から逸れるが、松任谷由実もお気に入りだった)。

 

 

 

 

”Miss M”  異端の系譜

   

 

 

 

 

 翌年の1981年には、「Miss. M」がリリースされた。

 

 

 

 

 とても驚いた。

 

 

 

 

 1stから3rdまでとは全く異なる路線に踏み込んでいた。

 

 

 

 

 

 当時の最先端ポップスのメッカ、アメリカ西海岸ロス・アンジェルス録音。

 

 

 

 AirplayとTOTOのメンバーが揃い踏みだった。

 

 

 

 

 エレキギターを手にしていた筆者にとっては、スティーヴ・ルカサー、ジェイ・グレイドンのツインギターは魅力的だった。

 

 

 

 

 雑誌「ギターマガジン」に1曲目の「Sweetest Music」のギターパートの譜面とタブ譜が掲載されたほど、このアルバムはロックやクロスオーバーのジャンルでも関心を集めた。

 

 

 

 

 

 すでに竹内まりやと生活を共にしていた山下達郎は、ラジオ番組でこのアルバムのプロデュースを批判した、と友人から当時聞いた。

 

 

 

 

 リマスター版のCDのブックレットには、「Secret Love」はジェイ・グレイドンが録音現場で作品提供を申し出て、竹内まりやの制作サイドがこれを受け入れたと説明されている。

 

 

 

 

 

 ラジオ番組で竹内まりやがLA録音の状況を語るのを聞いたことがある。他の楽曲も「これどうだい?」と気軽に勧められたと語っていた。

 

 

 

 

 もし録音されていたら、貴重な記録になっていたと思う。

 

 

 

 

 最後の曲「Farewell Call」では、後述する国内巡業「ピクニック・ツアー」のバンドメンバーが演奏している。

 

 

 

 

 

 下の画像は、高校時代のクラスメイトが一昨年送ってくれたものだ。

 

 

 

 

 

 竹内まりやがMCを務めるラジオ番組の公開番組収録の当選チケットで、クラスメイトは筆者を誘ってくれた。

 

 

 

 

 

 

 この画像は、年末の大掃除の際に見つけたものだったが、なかなか目にすることはできないと思う。

 

 

 

 

 

 後で知ったことだが、RCサクセションは同年、「雨上がりの夜空に」をリリースし人気が爆発し掛けたころだったという。

 

 

 

 

 200人ほどが収容された会場は、若い女性ばかりだった。その99%がRCサクセションの熱烈なファンだった。彼女たちは、RCサクセションが演奏を始めた途端、一斉に立ち上がって拳を振り上げながら踊り出した。

 

 

 

 

エッグマンルイード ライブハウスでの表情

 

 

 

 

 

 竹内まりやは、コンサートホールで本領を発揮する歌手だったと思う。

 

 

 

 

 堂々とした振る舞いで、ホールの大きさを物ともしないステージングだった。

 

 

 

 

 クラスメイトに誘われ、1980年に行われた「ピクニック・ツアー」を聴きに行った。会場の神奈川県民会館の大ホールは満席だった。

 

 

 

 

 ツアーのメンバーは、清水信之(arrange/kb)、青山徹(g)、中西康晴(piano)、渡辺モリオ(b)、野口明彦(ds)(パーカッションの名前は忘れてしまった)。翌年発売のアルバム「Miss M」の最後の曲には、このメンバーが起用されている。

 

 

 

 

 部活動で開演に間に合わなかった立川市市民会館のコンサートでは、閉演後に通用口に並んで竹内まりやと握手をした。

 

 

 

 

 握手をしたのは、この時ばかりではない。神奈川県民会館ほか計3回に及んだ。

 

 

 

 

 

 筆者にとって、音楽家と握手をするのは、これが最初で最後だった。

 

 

 

 

 

 

 クラスメイトは芸能界の情報に通じていて、「来週ライブがあるけれど行かないか」とよく誘ってくれたものだ。

 

 

 

 

 

 中でもライブハウスでの公演は忘れられない出来事だった。

 

 

 

 

 荻窪、下北沢を拠点としたロフトが新宿に進出した1976年を境にライブハウスを拠点とする音楽家が多く出てきた。

 

 

 

 

 

 そうした流れの中で、竹内まりやもライブハウスで何度か公演を行っている(学生時代に所属した音楽サークルでは、ライブハウスへの参加バンド出演が頻繁にあったという)。

 

 

 

 

 

 

 

 1980年の夏のこと。渋谷のエッグマンで、竹内まりやのファンクラブ主催のライブイベントが開かれるというので、クラスメイトと聴きに行った。

 

 

 

 

 

 

 

 驚いたことに観客は100人に満たなかった。このイベントは、当時随一の発行部数を誇った情報誌「ぴあ」にも掲載されていた。それにもかかわらず、この程度の集客だった。

 

 

 

 

 

 

 

 会場に入ると、ステージにグランドピアノが置いてあった。

 

 

 

 

 少し緊張しながら、開演を待った。

 

 

 

 

 ステージ後方のカーテンが開き、竹内まりやが登場した。

 

 

 

 

 竹内まりやは軽く会釈したが、なぜか観客からの拍手はなかった。

 

 

 

 

 やがてピアノに向かった。

 

 

 

 

 1stアルバムの1曲目の「グッバイ・サマーブリーズ」をピアノを弾きながら歌った。

 

 

 

 

 

 竹内まりやはピアニストではないが、プロの音楽家の面目躍如と言っても良い腕前だった。

 

 

 

 

 Miss Mがリリースされた1980年の秋には、新宿のルイードでライブが行われた。

 

 

 

 

 ルイードは、デビュー直後のシャネルズがベストテン出演時に利用したこともあり、知名度は高かった。

 

 

 

 しかし、このライブも客の入りは不調で、ところどころ空席が目立った。

 

 

 

 

 

 最近では、青山ブルーノートや六本木ビルボードなど、大物のポピュラー音楽家が出演するライブハウスが存在するが、当時はテレビで活躍する音楽家がライブハウスで公演を行うのは珍しいことだった。ライブハウスで音楽を聴くという、音楽的な土壌が育まれていなかったのだろう。

 

 

 

 

 

 それはともかく、ルイードでのライブは、新譜のMiss M.からの曲が多く、竹内まりやは、リズムに乗った大胆なアクションを交えて、Sweetest MusicやSecret Loveなど英語詞の歌を唄った。

 

 

 

 

 

 ギター演奏が聴きどころの曲が多かったこともあり、トレードマークのGibsonフライングVを手にした青山徹は、ステージ上を縦横無尽に動き回り、椅子の上に乗ってチョーキングするなど、存在感を見せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ライブハウスのような小さなキャパの会場では、音楽家との距離が縮まる。竹内まりやのライブでも同様だった。

 

 

 

 

 ルイードでは最前列に座った。2メートルくらい前に、歌っている竹内まりやがいた。

 

 

 

 

 竹内まりやは、時折ふと、憂いを秘めた表情を見せた。

 

 

 

 

 この憂いは、渋谷のエッグマンでも、高田馬場のBigBoxでも窺えた。

 

 

 

 

 心配性の筆者特有の悲観的な見方だったのかは今でも分からない。

 

 

 

 

 しかし、筆者は竹内まりやの才能を賞賛し、万事を楽観視していた。そんな憂いは到底考えられないものだった。

 

 

 

 

 杞憂だったのだろうか。 

 

 

 

ローレンスパークの想い出」のメタファー

 

 

 

 

 竹内まりやのデビューを実現させた牧村憲一は、竹内まりやが「加藤和彦山下達郎大貫妙子杉真理、安倍泰弘、センチメンタル・シティ・ロマンスの起用を前提条件とした」と記している。1994年に刊行された、竹内まりや自身のフォトエッセイ「インプレッション」でも、同じようなことが語られている。

 

 

 

 

 

 条件に挙げられた音楽家はすべて牧村と関係があった。

 

 

 

 

 そして、全員が1stアルバム「Beginning」から深く関わった。

 

 

 

 

 山下達郎は、2ndアルバムの竹内まりや作詞作曲「涙のワンサイデッドラブ」でアレンジを担い、初の共演が実現した。キーボード以外の楽器は、山下達郎が弾いている。彼のファンは、ドラムスを高く評価しているが、ベースラインも良いと思う。ベースラインとキーボードのアルペジオの相性は抜群だ。

 

 

 

 

 

 

 そして、1981年には、5thアルバム「Portrait」がリリースされる。これが休養前最後のアルバムとなった。

 

 

 

 

 

 竹内まりやは、プロデュサーとしてクレジットされている。宮田茂樹、村上優との連名だが、音楽キャリアで初のことだった。

 

 

 

 

 プロデュース業は単独名義の「Longtime Favorites」(2003年)、山下達郎との共同プロデュース「Denim」(2007年)、同じく共同プロデュース「TRAD」(2011年)まで待つことになる。

 

 

 

 

 

 

 さて、「Portrait」はとても興味深い作品だ。

 

 

 

 

 

 竹内まりやは、自著フォトエッセイ「インプレッションズ」の中で、1980年の「Love songs」リリースからほどなくして休養を決めていたと書いている。

 

 

 

 

 

 この「Portrait」の録音時には、休養前の最後のアルバムであることを関係者の誰もが知っていた。すでに山下達郎との結婚も決めていたという。

 

 

 

 

 1曲目の「ラストトレイン」、4曲目の「悲しきNight&Day」、7曲目の「リンダ」、10曲目の「ウエイトレス」、11曲目の「Special Delivery~特別航空便~』と全12曲のうち5曲で山下達郎がアレンジを手掛けている。

 

 

 

 

 

 これほど多くの曲を山下達郎が手掛けたのは初めてのことだった。

 

 

 

 

 

 山下達郎自身のアレンジ曲以外でも、彼のバンドのリズム隊だった青山純(Ds)、伊藤広規(Bs)が随所に起用されている。

 

 

 

 

 

 得意のハチロク(8分の6拍子)やカントリー調、ウエストコースト風、ロックなど、多種多様な楽曲が並んだ後、山下達郎がアレンジした「ウエイトレス」(10曲目)、「Special Delivery」(11曲目)が登場する。山下達郎竹内まりやの世界が突如現れ、アルバム全体を通しても、まったく違和感なく溶け込む。

 

 

 

 そこにはファンならではの一種の高揚感が存在した。

 

 

 

 紛れもなく、2人の未来の姿を暗示するものだったのだろう。

 

 

 

 

 そして次の曲は、アルバム最後の曲「ポートレイト~ローレンスパークの想い出~」。

 

 

 

 

 

 オリジナルLPアルバムのライナーには竹内まりや自身が、高校時代に留学したアメリカのイリノイ州ロックフォールズで親しくなった青年にふられた想い出を詞にしたと綴っている。

 

 

 

 

 

アルバムの片隅に 色あせた写真ひとつ

 

呼び起こされた 遠い日

 

北風とあのLawrence Park

 

 

はかないほど眩しい 冬の陽を背中に浴びて

 

17才の私は 駆け回るあなたを見てた

 

グレイのコート 置き去りにして

 

君がいるから 寒くはないんだと

 

写してくれた 私の笑顔が少しぶれてる

 

 

手袋越しに 触れたあなたの

 

あたたかな手は まるで 幻のよう

 

 

雪が溶けてく Lawrence Park

 

いつか 恋も消えて

 

青い瞳に  さよなら

 

夢で会える日まで

 

夢で会える日まで

 

 

Say good-bye to you and Lawrence Park

 

 

 

 

 

 多弁ではないが、多くの意味を内包する詞が世の中には存在するはずだ。

 

 

 

 

 筆者は、この曲がそのひとつだと考えている。

 

 

 

 

 この時の失恋を基にして書いた曲は、2ndアルバムに収録されている「涙のワンサイデッドラブ」だったと、後年、竹内まりや自身が自著「インプレッションズ」で語っている。

 

 

 

 

 

 

 この曲のタイトル「ポートレイト」は、この最後のアルバムのタイトルにもなっている。

 

 

 

 

 

 そう考えると、アルバムコンセプト含めて、この曲のタイトルに多くのことが収斂されてくるはずだ。

 

 

 

 

 

 当時26歳の竹内まりやが、自らの17歳の恋に思いを呼び起こす。これをキャリア一区切りのアルバムの最後の曲にし、曲名をアルバムタイトルにする。

 

 

 

 

 結婚を控えていた彼女からすれば、自然な流れとは言えない。

 

 

 

 

 

 山下達郎竹内まりやの世界を如実に表した前2曲では、男女が結ばれる詞が綴られている。それは紛れもなく、近い将来結ばれる2人を表している。

 

 

 

 

 

 最後の曲「ポートレイト~ローレンスパークの想い出」は、デビュー以来、音楽面で支えてきた、旧知の関係者との別れを歌った。

 

 

 

 

 筆者はそう捉えている。

 

 

 

 

 

 アルバムのジャケットは、1stアルバム「Beginning」のジャケット同様、ストローハットを被っている。このセッティングも多くを示唆するものだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

竹内まりや山下達郎世良公則、桑田圭佑、ダディ竹千代 ライブ収録

 

 

 

 竹内まりやは、1980年にラジオ番組で、山下達郎世良公則、桑田圭佑、ダディ竹千代とともに「竹野屋セントラルヒーティング」というバンドを結成して演奏を行った。

 

 

 

 

 

 ネットで検索すると、演奏された曲名がヒットする。

 

 

 

 

 筆者は、この番組を生で聴いていた。

 

 

 

 

 ビートルズナンバーなどが演奏されたが、聞き応えのあるライブだった。

 

 

 

 

 山下達郎は、番組で名前が公にされなかった。それが出演の条件だったという。

 

 

 

 

 

 竹内まりやも含めて出演者は、山下達郎を「ワイ君」と呼んでいた(YamashitaのY)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 山下達郎は、ドラムス担当だったが、記憶が確かならば、キーボードも弾いたはずだ。そして、その場でバンドの譜面も書き換えた。これには出演者皆が感心した。

 

 

 

 

 

 

 結婚する前の出来事だが、2人ともバンドサウンドが好きな証拠だと思う。

 

 

 

 

 

録音技術の変遷を巡って

 

 

 

 さて、筆者は、アルバム録音という点に関して、とても興味がある。

 

 

 

 

 個人的に親しみのある音楽界隈に近いエンジニア(近藤祥昭氏)のインタビューを貼るので、一読してもらいたい。専門的なことだが、すごくわかりやすい言葉を使って、とても良いことを語っている。

 

 

 

 

 

GOK SOUNDならではのこだわり等を聞かせていただけますか?

立体的なサウンドが出るスタジオを維持するのに必死です。というのも、ここ10年でレコーディングスタジオ業界がものすごい勢いで衰退していく一方なんです。それはPro Toolsが普及して、それまで数千万かかった機材が、数百万から数十万で手に入るようになってしまい、大手のレーベルがレコーディングスタジオを手放してしまって、自宅録音に毛の生えたような状態で作っているというのが現状なんです。

よく耳にします。

名だたるレコーディングスタジオはどんどん閉鎖されていくという苦しい状況になっています。そんな状況ですから、レコーディングをやっていたところも、機材を置かないで場所だけを貸して、Pro Toolsを持ち込んで勝手に作ってくださいというとこも増えています。ということはエンジニア達も職を失うことになるんですよね。逆にその中にあってこそ、良い部屋でちゃんと音が響く録音環境を維持し続けるのは非常に大事だと思っています。リハーサルスタジオっていうのは練習用に作っていますから音がデッドです。そうすると楽器の存在感や音質がどうしてもだけになってしまうんですよ。

特に日本の住宅事情だと楽器本来の鳴りを知らない世代も多いでしょうね。

日本だけでなく世界中でリスニング環境がすごく貧しくなったと思います。ほとんどがパソコンのスピーカーやイヤホンで音楽を聴く環境になりました。そしてiPodが出て、スマートフォンが出た時に『これで終わるな』と思いました。音楽も映像もスマートフォンで完結している。そんな状況ですから、本当のエネルギーをもった録音物を作れないんです。しっかりしたものを作っても、聴く環境がインスタントなものになりすぎてしまって、リスナーの耳が育たなくなってるんですよ。

微妙な違いがわからなくなっている、ということですか?

利き酒と同じでね。例えば、この酒飲んでみてといわれて飲みます。そしてもっと良い酒を飲ませます、でもその時点ではそれらの違いがわからないんです。ところが、その良い酒をしばらく飲ませてから前の酒を飲ますとその違いに気づくんですね。 

確かに僕自身も若いころより酒の味がわかるようになってきました。

人間の身体的な機能や感覚っていうのは25才くらいまで成長すると思っています。それまでの間に、どういった環境でどれだけのものを聴いたかによって、耳のレンジ感や音の捉え方というのが違ってくると思うんです。

興味深いです。

これはオーディオメーカーにハッキリ言いたいのですが、今の若い人たちがスピーカーで音楽聴く環境ってどういうシチュエーションが多いんだろう? と考えると、喫茶店や牛丼屋のシーリングスピーカーくらいなんですよ。あれが日本人の耳を駄目にしてると思うんです。

具体的には?

あのスピーカーで聴くと、一生懸命録ったギターの音などもガッカリするほど全く聴こえずに、ボーカルの音ばっかり大きく出てきます。しかもボーカルも日本語のレンジに合わせているから、幅の狭い音域で録られている状態で聴こえてきてしまう。だからここ数年、若いバンドの曲をミックスすると、極端にボーカルを大きくしたいって言ってくるんですよね。彼らの普段聴いている音楽がそういうバランスで録られているんです。スタジオで聴いた作品を飲食店のシーリングスピーカーで聴くと、そういったバランスになって聴こえるようになってるんです。

良いか悪いかは別として、カラオケスタイルになるんですね。

そうですね。リスニング環境が変わってきているのと、インスタントになんでも手に入るから、作品に対峙して聴く人ってのは少なくなったのかもしれないですね。もちろんミュージシャンは研究的にはしっかり聴くとは思うんですけど、バンドを支えてくれる一般の人たちの耳が衰えてきてるんじゃないかと思います。

良いアルバムって、最初に聴いたとき、三日後、三年後、三十年後に聴いても感動できるもの。

 

確かに鳴らない部屋でPro Toolsを使用して録音すると、楽器の特性やサスティンを活かしたサウンドをキャッチしてもらえず、ひたすら打点のみをピックアップされてしまいますね。よりコンピューター的な感覚の方が正解にされる風潮はあるかと。

そうそう! それだと、ただ下手な演奏として聴こえたりするからPCで修正するでしょ!? それが楽曲の寿命を短くしてると思うんだよ。サビの一番と二番が楽譜の上では一緒だとしても、それをコピペして貼り付けるとか、ズレた部分を修正したりとかなると、全部が均質なものなってきちゃって、どのバンドも感触が似てきちゃんうんだよね。そうするとリスナーの心の中に響く時間が短くなると思うんです。良いアルバムって、最初に聴いたとき、三日後、三年後、三十年後に聴いても感動できるものだと思うんですよ。そういうものが残せなくなってきてるんじゃないかと危惧しています。

 

 

 Pro Tools:プロトゥール(ツール)は、ここ数年流行りの録音ソフトで、アマチュア楽家でも宅録などで使っている。

 

 

 

 知り合いの音楽家が1990年代の後半から使っていたので、筆者自身は、それほど新しいものだとは思わないが、大々的に取り上げる音楽番組がNHKで放映されるなど、かなり一般的になってきたのだろう。

 

 

前に出るボーカル

 

 

 

 

 プロトゥールが登場してほどなく、音圧の高い録音が主流になり始める。2000年代に入りかけた頃だろうか。

 

 

 

 ただ、それが、プロトゥールの影響なのか、もともと音圧の高いクラブミクス等の影響なのかは筆者にはわからない。

 

 

 

 それと同時に、いわゆる「ボーカルが前に出る」録音スタイルが主流になった。

 

 

 

 つまり、楽器やコーラスよりも、ボーカルが前面に出て、大きく聴こえる録音が好まれるようになった。

 

 

 

 上のインタビュー記事にもある通り、視聴者側のオーディオ環境の変化が大きかったのだろう。視聴者のニーズに抗うことは、大衆音楽を生業にする上ではタブーであり、時代の波に乗ることは不可避なのだと思う。

 

 

 

 竹内まりやのアルバムにも変化が現れる。

 

 

 

 2001年にリリースされた、「Bon Appetit!」(ボナペチ)は、竹内まりやの作品の中で初めてボーカルが前に出た録音になった。

 

 

 

 

 

 2ndアルバムの「涙のワンサイデッドラブ」、5thの「悲しきNight&Day」「Linda」など、得意の8分の6拍子の楽曲、いわゆる”ハチロク”では、バックグランドボーカルやドラムスの音に、メインの竹内まりやのボーカルが溶け込む、重層的で厚みのある音作りが特徴となる。

 

 

 

 ハチロクは、竹内まりや山下達郎の共演中、もっとも特徴的な楽曲形態といわれている。もちろん、山下達郎がアレンジを手掛け、コーラスも担当し、ほとんどの楽器を演奏する。

 

 

 

 

 そこでは、二人の世界が存分に展開されるが、竹内まりやのメインボーカルは、決して前に浮き出てこない。

 

 

 

 ところが、この「Bon Appetit!」に収録された”ハチロク”の「とまどい」では、竹内まりやのボーカルが埋もれることは決してなく、前に出ている。

 

 

 

 

 

 Pro Tools上で、イコライザーやコンプレッサー、リバーブ等を施すプロの作業を間近に見たことがあるが、レコーディングのミキシング作業でも、これらのエフェクトが必須と言われている。もっとも、竹内まりやのレコーディングでどのような作業が行われていたかは関係者以外はわからない。

 

 

   

 

 「とまどい」を収録した「Bon Appetit!」のミキシングは、”吉田保”とクレジットされている。

 

 

 

 

 吉田保は、大滝詠一山下達郎のアルバムを手掛けてきた名エンジニア。リバーブを好み、その使い方に特徴があるそうだ。

 

 

 

 

 筆者が好んで聴いているレコードレーベルのひとつに、ドイツの名門ECMがある。そのECMの録音の特徴はリバーブにあると言われている。

 

 

 

 ECMで名作を残したピアニストのPaul Bleyが、2001年の来日時のライブ演奏中にリバーブを目一杯掛けられたという逸話があるほど、ECMにまつわるリバーブ信仰は根強い。

 

 

 

 ただ、ECMのリバーブの使い方は、素人が聴いても明らかに残響と聞こえるほどの強い響きと余韻を残す。まるで洞窟で音楽を奏でるような響きといっても過言ではない。

 

 

 

 その点で、吉田保が手掛けた「Bon Appetit!」とは異なっている。しかし、響きのある艶めかしい音が作品全体を彩っていると感じることができる。

 

 

 

 

 5thアルバムの「ポートレイト」に収録された「Special Delivary~特別航空便」を聴いてみると、竹内まりやのボーカルの高音がかなり際立って聴こえる。

 

 

 

 イコライザーで処理したのだろうか。

 

 

 

 

 いずれにせよ、レコーディング技術が音楽家に与える、もろもろの影響について語るのは難しい。

 

 

 

ヴィブラートとレコーディング技術

 

 

 

 4thアルバム「Miss M」収録の「雨のドライブ」(竹内まりや作詞・作曲)は、ジャズムードに溢れる歌だ。

 

 

 

 

 ジャジーな歌は、3rdアルバム「Love songs」の「五線紙」が最初となる。

 

 

 

 

 「五線紙」は、ベテランジャズギタリストの杉本喜代志が伴奏をしている。オクターブ奏法のソロギターが披露されるなど、伝統的なジャズのハーモニーで彩られている。

 

 

 

 

 一方の「雨のドライブ」は、アレンジャーの清水信之が手腕を発揮し、遊び心あふれるジャジーな伴奏となっている。いわゆるバークレーメソッドに囚われないアレンジが魅力だ。

 

 

 

 竹内まりやは、「五線紙」とは異なる歌唱法を採用し、自作の「雨のドライブ」で、ヴィブラートを強調した歌を唄っている。

 

 

 

 最近の竹内まりやは、”ヴィブラート”について語るようになった。

 

 

 

 そのことに気付いたのは、2019年10月号のミュージックマガジンのインタビューだった。

 

 

ースタンダードでは歌い方が違いますね。

 「そうです。ヴィブラートの配分などを意識的に変えていますね。レコードをかけながら人真似して歌うのが幼いころから好きだったせいか、この歌手はここからここまでストレートに伸ばして、そのあと細かいヴィブラートを入れてくるとか。そういうのを分析して聞くのがすごく好きだった(中略)ですから今回(アルバムTurntable)、松木(恒秀)さんたちとやった一連のスタンダード・ジャズは、他の曲よりもヴィブラートが強調されているはずです」

 

 

 

 もしかすると、山下達郎がホストを務めるサンデーソングブックの夫婦放談などで、それ以前から言及があったのかもしれない。

 

 

 

 2021年12月のサンデーソングブックの夫婦放談では、ジャニーズの嵐に提供した「復活LOVE」を自ら歌った竹内まりやはこう語った。

 

 

 

 「でも、とにかく大野くんの上手さにね。最後のあの、微妙なビブラートがね、ちゃんとね、できてるの。あたし全然歌えなかった。すごいです。ほんとに」

 

 

 

 ジャズスタンダードの”Cry me a river”が収録されている「TurnTable」のブックレットには、「結婚を機に休業した頃の私は、レコード棚にあるジュリー・ロンドンのアルバムをよく聴いたものです」と記されている。

 

 

 

 そのジュリー・ロンドンの十八番がこの”Cry me a river”(Libertyレーベルリリース「Julie is her name」収録)。

 

 

 

 

 白人ジャズボーカリストジュリー・ロンドンは、ヴィブラートを巧みに操ることで知られている。

 

 

 

 竹内まりやは、他のジャズボーカリストでは、エラ・フィッツジェラルドサラ・ヴォーンも聴いていたという。ジュリー・ロンドンは、他の2人よりも仰山ではなく、微妙なヴィブラートの掛け方をする。

 

 

 

 この洗練されたヴィブラートが、竹内まりやの歌唱に大きな影響を及ぼした可能性は高いと思う。

 

 

 

 

 

 また、ミュージックマガジンのインタビュービュワーが、森山良子のファルセットや地声の使い分け、ヴィブラートを分析したことがあるという話題に触れた時、竹内まりやはこれを否定しなかった。 

 

 

 

 

 先述した、ヴィブラートが強調された、ジャズナンバー「雨のドライブ」は4thアルバムに収録されているが、ヴィブラートがはっきりと再現された楽曲は、すでに3rdアルバムで登場している。

 

 

 

 竹内まりやは実は、他の曲でもヴィブラートを効果的に使っているが、ヴィブラートを、はっきりと明確にオーディオ的に再現した最初の曲が、自作の「待っているわ」だった。

 

 

 

 アルバムを通して聴くと、「待っているわ」では歌声がくっきりと聞こえる。歌唱法と相俟って、声が通り、響き、際立っている。アルバムの他の楽曲と比べると、ヴィブラートがより強調される。

 

 

 

 復帰後第一弾の「ヴァラエティ」のトップを飾る自作「もう一度」でも、ヴィブラートは駆使されている。しかし、筆者が保有する、どの再生装置で聴いても、それをはっきりと知覚認識することは難しい。

 

 

 

 同じように、復帰後第2弾の「リクエスト」から「クワイエットライフ」まで、ヴィブラートがはっきりと知覚認識できない状況が続く。

 

 

 

 エフェクターが掛けられた声が存分に響くため、ヴィブラートの特徴である振幅が削がれることが原因ではないかと思う。

 

 

 

 「デニム」収録の8曲目「ラスト・デイト」、9曲目「クリスマスは一緒に」を聴き比べれば、良く理解してもらえると思う。

 

 

 

 

 それでは、8分の6拍子の「ラスト・デイト」、リズムトラックが”プラスチックラブ”と親和性のある「クリスマスは一緒に」の違いとは何か。

 

 

 

 「ラスト・デイト」のボーカルは、地声を生かしたナチュラルな音質だが、「クリスマスは一緒に」では、エフェクターがかかっており、それぞれのヴィブラートの聞こえ方はまったく異なっている。

 

 

 

 もちろん、ヴィブラートが良く聞こえるのは、「ラスト・デイト」の方だ。

 

 

 

 

 ヴィブラートが良く通るという録音が、竹内まりやのその後のアルバム制作の重要な要素となってくる。

 

 

 

 竹内まりやがヴィブラートを極めようとした結果、そういったナチュラルなボーカルの再現が試みられたのか。

 

 

 

 あるいは、ボーカルが前に出るような録音が主流となった結果、竹内まりやがそれまで以上にヴィブラート研究に没頭するようになったのか。

 

 

 

 

 残念ながら、その答えを得ることはできない。

 

 

 

 

 なにはともあれ、レコーディング技術の変化が音楽家竹内まりやに与えた影響を垣間見たような気がする。

 

 

その声、その真髄

 

 

 復帰アルバム「ヴァラエティ」には、実力ある管楽器奏者たちが参加している。

 

 

 

 

 村岡健(T.Sax)、数原晋(Trumpet・故人)、中川昌三(Flute)、向井滋春(Trombone)、Earnie Watts(A.Sax)ほか。

 

 

 

 山下達郎は、俊英ジャズサックス奏者の土岐英史(故人)をツアーメンバーに迎えたことから、管楽器には一過言あるのではないかと思う。

 

 

 

 しかし、ヴァラエティの制作時に、竹内まりやは、プロデューサーの山下達郎に、さまざまな要望を出したと言われている。坂本龍一のパイプオルガンを模したシンセの演奏も、竹内まりやの発案だったという。

 

 

 

 

 管楽器奏者の充実は、竹内まりやの意向だったのかもしれないが、本当のところは分からない。

 

 

 

 

 異なるジャンルの話になってしまうが、音楽評論用語で、ホーン・ライク(horn like;like a horn)と呼ばれる言葉がある。

 

 

 

 ジャズ評論で主に用いられ、例えば、ギタリストのジム・ホールジョン・スコフィールドの演奏をホーン・ライクと評したりする。

 

 

 

 ジム・ホールジョン・スコフィールドは、文字通り、管楽器の音色やフレーズをギターで表現している。

 

 

 

 一方、ホーン・ライクは、楽器奏者だけではなく、ボーカリストに対しても例えられる形容だ。

 

 

 

 エラ・フィッツジェラルドヘレン・メリルの歌唱も、ホーン・ライクと形容される。

 

 

 

 二人とも、竹内まりやが良く聴いていた歌手だ。

 

 

 

 エラ・フィッツジェラルドは、メロディを崩した歌回しやアドリブでのスキャットをホーン・ライクと例えられる。これに対して、ヘレン・メリルは原曲のメロディーラインを崩さずに歌いながらも、ホーン・ライクと形容される。

 

 

 そこに違いがある。

 

 

 竹内まりやは、ポピュラーミュージックやジャズを歌うときには原曲を崩さない。

 

 

 ーーー 変にフェイクすることもなくて。

 「私は基本的に歌にフェイクを入れないタイプなので。レコード通りに歌うというか。できるだけ符割り通りに歌うのが好きなんです」(ミュージックマガジン 2019年10月号)

 

 

 

 竹内まりやが、ヘレン・メリルのレコードを愛聴していたことははすでに触れた。

 

 

 

 それだけで、ヘレン・メリルのホーン・ライクな歌唱の影響を受けたと見るのは早急だと思う。

 

 

 

 しかし、竹内まりやの唄には、管楽器を感じさせる「何か」がある。

 

 

 

 多種多様な管楽器の中でも、とりわけサクソフォンを想起させる。

 

 

 

 作曲、歌唱法のいずれにも、サクソフォンを感じさせるところがある。

 

 

 

 自らが手掛けた楽曲のメロディーラインは、サクソフォンが演奏しても何ら不自然ではない箇所が多い。

 

 

 

  「駅」や「プラスティックラブ」などのメロディラインには、サクソフォンの運指と見紛うばかりのパートがある。

 

 

 

 

 声の響きはもとより、ヴィブラートの掛け方まで、管楽器的に感じられる。

 

 

 

 「雨のドライブ」を聴くと、冒頭からベンド*が心地よさを誘っている。この曲では、ベンドを多用しており、それがヴィブラートと相俟って何とも言えない表現方法になっている。

*音符の音の前に半音ほど下げてから当該音符まで到達する技術(ベンドアップ)。または、半音上げてから当該音符まで到達する技術(ベンドダウン)。歌唱の世界ではともかく、サクソフォンの技術では、ヴィブラートとベンドは明らかに異なる。

 

 

 すでに触れたように、竹内まりやは、ヴィブラートの活用に関心があるが、ともすると、ヴィブラートを取り入れた唄は、きらびやかで派手な印象を受けがちだ。

 

 

 しかし、竹内まりやが使うヴィブラートは、本当にさりげなく、ともすると、使われていることにさえも気付かないほど自然な使い方をする。

 

 

 

 ワンブレス(一回の息継ぎ)の途中のヴィブラート、ワンブレス最後の息を吐き切る間際のヴィブラート。それに、横隔膜ヴィブラート。気付かれずに、多彩な技術を駆使している。

 

 

 40周年記念作の「ターンテーブル」では、スタンダードジャズナンバーを4曲披露している。

 

 

 ”Fly me to the moon”

“Scotch and Soda”

  “Cry me a river”

  “(I love you)For sentimental reasons”

 

 どの曲でも、ヴィブラートが巧妙に用いられているが、そのほとんどは、横隔膜を使ったもののように聴こえる。

 

 

 

 時々、喉を使ったヴィブラートを使うことでコントラストを付けている。この辺りの使い分けは本当にうまい。下手なジャズシンガーの上を行くと思う。

 

 

 

 ヴィブラートが見事に4ビートに乗っている。

 

 

 

作品中に通底する普遍性

 

 

 

 

 

 1994年に刊行された、フォト・エッセイ「インプレッションズ」は、竹内まりやに対する巷のイメージを一掃するほどの力があった。

 

 

 自らの思いを赤裸々に語っており、筆者もその語り口に魅了された。

 

 

 

 

 開放的=オープンマインドで、機知に富み、どこまでも楽天的な文章は、竹内まりやが創造する音楽そのものに符号する。

 

 

 

 すでに語られていることだが、このフォト・エッセイでも、レコードデビュー時の意気込みが「さほどでもなかった」ことを明かしている。

 

 

 

「アルバムを作ることにはしたものの、まあダメだったらやめればいいや、ぐらいに気楽に構えてたの」

 

 

 

 そして、こうも語っている。

 

 

 「これから自分でたくさん曲を書いていこうというビジョンも願望もなかったしね」

 

 

 

 この発言は注目に値する。

 

 

 

  それから7年後に2001年9月号のミュージックマガジン誌上で組まれた、単独インタビューを引用してみたい。

 

 

 

ーまりやさんは昔から他のシンガーに曲を提供していたし、職業作曲家的な資質にも恵まれているように思うんですが、ご自身はどのように感じてるんでしょうか。

 

 「(山下)達郎は、よくそんなことを言いますね。タイアップの場合は、曲調やテーマをわりと具体的に要求されるんですよ。たとえば、このアルバムにはケンタッキー・フライド・チキンのクリスマスCMの絵コンテには温かそうな家族が描かれていたんです。で、その絵コンテを見てたら、古き佳き時代のアメリカのポピュラー音楽のようなイメージが沸いてきて、服部克久先生にオーケストラのアレンジをしてもらいたいなあと思ったんですよね。つまり条件を与えてもらった方が曲のアイデアが浮かぶんです。逆に”どうぞご自由に”と言われたら、どんな曲を作っていいのか迷うかもしれない。ただ、自分が職業作曲家になれるかというと、そこまで音楽的レンジが広くないから、無理でしょうね」

 

 

ーデビュー盤「ビギニンング」には、1曲だけオリジナル曲が入っていましたけど、最初は歌手という意識の方が強かったんですか。

 

 

 「そうです。私は純粋に歌手としてデビューしましたから。もちろん、大学時代から曲は作ってましたけど、あくまで遊びだったし、本格的に自分で曲を書くようになったのは休養してからですね。(中略)実は、今でもそれほどオリジナル曲にこだわってはいないんです。逆に他人の曲を歌いたいと思ってる。そんな歌手としての自分がいるんですよね。(中略)私はいつかスタンダードでも昭和40年代の歌謡曲でも何でもいいですけど、自分が好きな曲を集めたアルバムを作ってみたいと思ってるんですよ」

 

 

 

 このインタビューから18年経った2019年の10月、ミュージックマガジン誌上で、特集「竹内まりや」が組まれ、12ページにわたるインタビューが掲載された。

 

 



 

 デビュー40周年を迎えた竹内まりやは、山下達郎の指摘していた「職業作曲家的なスタンス」を肯定するようになっている。

 

 

 

 しかし、歌手であることの矜持を捨ててはおらず、むしろ、歌うことへの渇望を隠そうとはしていない。

 

 

 

 「それでもなお、自分でやりたいんだけれどやれないことを補うために洋楽のカヴァーをしたり、達郎の作品を歌ったり、他の人が書く曲に戻っていくことで満たすんです。だから、今この年齢で<セプテンバー>や<不思議なピーチパイ>を歌うのはすごく楽しいんです。人が書いた曲には、自分の発想にないメロディーと言葉があるし。それらの曲をシンガーに徹して歌うことが、また好きなんですよね。自分が書けない曲だから」

 

 

 

 「私自身が、時々自分の声質に飽きてくることがあって、それをさせないための洋楽カヴァーでもあるんですけど。日本語の歌唱によって出てしまいがちな声質の気に入らない部分を、何かで補いたい自分がいたりする。それが出来るのが洋楽のカヴァー。ある種の息抜きなんですね」

 

 

 

 2001年時点での「自分が好きな曲を集めたアルバムを作ってみたい」という願望は、2年後の2003年にリリースされた「Longtime Favorites」で叶った。このアルバムは、竹内まりや自身のプロデュースで制作された。

 

 

 

 

 そして、40周年記念として制作された「Turntable」のディスク3では、25曲中の13曲がビートルズナンバーの収録となっている。

 

 

 

 1987年秋に結成された、杉真理松尾清憲、小室和之、田上正和からなるバンド”BOX”が原曲キーで演奏し、竹内まりやがメイン、バックコーラスと存分に歌う。

 

 

 

 

 ブックレットにある「The night before」の解説には、「もし中学生の私がこうしてビートルズの楽曲をレコーディングしている60代の私の姿を見たら、きっと腰を抜かして驚くことでしょうね。何という幸せ。」と記されている。

 

 

 

 

 

 「小学四年のある日、森永ストロング・チョコレートのコマーシャルに見たこともない四人組が出て来て、超カッコいい曲を歌ってたの。それがビートルズとの出会い。(中略)そのコマーシャルは結局、『ビートルズがやって来るヤア!ヤア!ヤア!』の映画のワンシーンだったわけなんだけど、彼らのヘア・スタイルもスーツもブーツもヴォーカルも、とにかくみ~んなすきすぎて、ちょっとしたショック状態だった」(インプレッションズ)

 

 

 

 

 世界的な大ヒットとなった、「プラスチックラブ」が収録された「ヴァラエティ」(1984年)の中で、「一番のお気に入りはどの曲か」と問われた竹内まりやは、リリース当時にプロモーション出演したラジオ番組でこう答えた。

 

 

 

 「マージービートで唄わせて」

 

 

 

 この曲は、紛れもなくビートルズへの賛歌だ。

 

 

 

 

 

 

 

 時代を経ても、不変の存在であり続けるのが難しい時代になっている。

 

 

 

 

 

 ところが、竹内まりやの作品は、不朽の、まさにエバーグリーンの輝きを放っている。

 

 

 

 われわれは、40年以上もの間、竹内まりやの作品や歌唱を賞賛してきた。

 

 

 

 竹内まりやが大切にしてきた、数々の歌そのものと、それらに対して抱いてきた畏怖と敬意が、作品に通底する雛形(type)として存在していたのは事実だと思う。

 

 

 

 

 竹内まりやの作品がエイジレスで不朽の輝きを保っているのは、そして、われわれが竹内まりやの作品を賞賛し続けるのは、その雛形が作品深く認知できない場所に込められているからだろう。

 

 



 

1984年の春

 

 筆者が20歳を迎える1984年。竹内まりやが復帰作をリリースするというニュースが届いた。

 

 

 ある日、クラスメイトがこう言った。

 

 

 「きのう、神宮前の通りで、竹内まりやがスチール撮影をしていた」

 

 

 プロモーションが始まったようだった。

 

 期待は高まった。

 

 

 

 ほどなくして、新作の発売が4月25日に決まった。

 

 

 発売当日は、どこか落ち着かなかった。

 

 

 まっすぐ家に帰り、購入したレコードに針を落とした。

 

 

 

 待った甲斐があった。

 

 

 

 そう思った。

 

 

 

 紛れもなく、山下達郎が言う職業的音楽家としてのスタートとなった。

 

 

 

 今聴いても、良く作り込まれた作品だと思う。

 

 

 

 

 

 

 17歳の時に竹内まりやが休業すると聴いた時、「きっと直ぐに戻ってくる」と感じた。

 

 

 

 だから、失望しなかった。

 

 

 

 

 

 新作「ヴァラエティ」は、復帰後の最高傑作の一つだと思っている。アルバムタイトルの通り、本当に趣向に富んでいる。

 

 

 

 どの曲も素晴らしい。

 

 

 

 「プラスティックラブ」も。そして、竹内まりやの1番のお気に入りだった、「マージービートで唄わせて」も。

 

 

 

 

 「ふたりはステディ」”Going steady”は、胸を躍らせる曲だ。1984年から聴き続けていても、その感覚が私の中で衰えることはない。

 

 

 

 これほどあからさまに女性としての心情を表した詞は、竹内まりやの作品の中で見つけることは難しい。

 

 

 

 

 それが夫となった、山下達郎への情愛を表したものだとしても、喜んで受け入れようという気持ちになる。

 

 

 

 2022年の春

 

 

 竹内まりやをテーマに記事を書こうと思ったのは今年2022年の2月だった。

 

 

 

 当初は簡潔にするつもりだったが、書きたい気持ちが勝った。

 

 

 

 ポピュラー音楽について長い評論を書くのは、生まれて初めてのことだった。

※音楽ライターの仕事に少しだけ携わったことがあるが、手掛けたのはポピュラー音楽ではなかった。

 

 

 何よりもファンの一人として、今の自分の考えや気持ちを記録しておきたいと思った。

 

 

 

 いろいろと細かい分析なども書いてしまったが、本当に伝えたいことは一言、

 

 

 「竹内まりやの魅力は唄声そのものにある」

 

 

 そのことに尽きる。

 



 

 竹内まりやのCDやレコードを聴いていると、「そう、この音」と思うことが度々ある。

 

 

 

 その時、その瞬間に、竹内まりやの唄声を望んでいたことにふと気付く。

 

 

 

 

 そんなことの繰り返しで42年が経った。

 

 

 

 次の作品が発表されるまで、過去の作品をじっくりと味わいたいと思う。