ジレッタント 彷徨と喜憂

物見遊山が好きです

メディアに載らない旅ルート

毎年何度も旅に出ているが、どういうわけか、その9割以上の行き先はこの土地になる。

 

中でも、これから書く観光スポット(というべきかどうか)は、

1キロ四方未満の狭い地域に収まっている。

 

 

とても不思議なことだ。

 

 

 

 

まず、このお寺を訪ねてみる。

 

 

 

 

山門をくぐって歩く。

 

すると信玄の文字が目に見える。

 

 

 

 

 

「信玄霊廟」とある。

 

この廊下をくぐると

 

 

「大井公卿お茶湯免井」

 

信玄とは、戦国武将、武田信玄を指す。

 

「大井公卿」は、大井氏が公卿(貴族の地位)であったことを示す。

 

大井氏は、信玄の母方の血筋。清和天皇の末裔で甲州(山梨)の荘園領主

 

武田氏も、同じく清和天皇の末裔。

 

 

 

突き当たりに信玄霊廟がある。

 

妻上部の棟には、家紋の武田菱が。

 

 

 

 

ここに信玄の遺骨と遺留品が眠っている。

 

ところが、時の政府はこれを頑として認めなかった。

 

信玄の遺骨は、諏訪湖に鎮められたとされているからである。

 

 

 

 

 

西門には正親町天皇(おおぎまちてんのう)の直筆の扁額が掲げられている。

安土桃山時代のこと。

 

 

 

 

 

そこから徒歩5分ほどの場所に、別の寺がある。

 

 

 

 

茂木氏の菩提寺

 

 

 

墓の前には、藤の花棚がある。この寺は、藤の花で名高い。

 

 

 

茂木氏は、藤原北家の流れ。藤の花は、藤原家にちなむ。

 

 

 

 

この寺の庫裏(書庫?)には、十六菊花紋が。

 

競うように十六菊花紋を付した寺社があったとされているが、

維新政府により、意味の無いものは淘汰された。

 

 

ここから、再び5分ほど、歩くと

 

 

王城公園に着く。

 

王城、別の名を大井城。

 

大井氏は、清和天皇の後裔。小笠原氏の末裔。

 

王城としたのは、大井城に、村上天皇の皇子が移り住んだためだ。

 

いわゆる臣籍降下である。

 

 

 

「天武十三年二月二十八日、三野王、小錦采女臣筑羅等を信濃に遣して、地形を看しめたまふ。是の地に都のつくらむとするか」「天武十四年十月十日、軽部朝臣足瀬、高田首新家、荒田尾連麻呂を信濃に遣わして、行宮を造らしむ」(日本書記・天武紀)

 

天武天皇信濃への遷都を考えていた。

 

郷土史家の中には、この地に遷都されることになっていたとする声がある。

 

しかし、日本の史学会はこれを認めていない。

 

 

 

 

さて、時代ははるかに降る。

 

 

 

 

このホテルは、明治天皇が「旅館からホテルにせよ」と命じてホテルにしたという。

 

明治天皇の貴賓室も設けられたそうだ。

 

お忍びで通ったとの話があるが、ホテルは打ち消している。

 

ちなみに、この旅館は、室町時代に創業され、足利氏、武田氏、徳川氏に

愛されたという。

 

王城に居住していた大井氏は15世紀に、鎌倉公方足利持氏の遺児・永寿王を庇護した。永寿王は、後年、古河公方足利成氏となった。

 

大井氏、足利氏ともに、清和天皇の後胤だった。