ジレッタント 彷徨と喜憂

物見遊山が好きです

洋服のことなど④

大学4年の終わりの長期休み、つまり1987年に、アメリカ旅行に行くことになった。

 

グレイハウンドで西海岸から東海岸に抜ける計画を立てた。

 

 

 

さてアメリカだ。

 

 

この旅行には、いくつかの目的があった。

 

 

だが、ひとことで言うならば、アメリカを一回見たかったというのが本当のところだ。

 

 

 

※ この旅行では、多くの収穫があった。だが、ここでは衣料についてだけ書きたいと思う。タイトル通りに、洋服のことを書かないと焦点がぼやけてしまうので、他のことは割愛する。

 

 

 

最初に着いたのは、ロサンゼルスだった。ハリウッドのダウンタウンまでバスで行き3泊した。

 

 

近くのカジュアルウェアショップに行くと、日本の店とまったく勝手が違って驚いた。ラインアップが完全に異なっているのだ。カジュアルウェアというよりも、バスケットボールやベースボールなどのアスレチックウェアとしての衣料であって、ジーンズも当時流行りのデザイナーズジーンズだけをそろえていた。

 

ためしにリーバイスの501を探してみた。リーバイスはサンフランシスコでの創業なので、ロサンゼルスでも流行っていると思った。

 

デパートやショッピングモールに行ってみたが、見つからなかった。どの店も、デザインされたジーンズだけを置いていた。

 

さすがに「これは様子がおかしい」と思った。

 

サンタモニカに行こうと思い、バス乗り場に向かう途中にふらりと寄った店で、偶然に501を見つけた。ところが、この店は、実は洋服店ではなかった。501の隣にはスパナやのこぎりが置いてあった。ランプやロープもある。

 

あとで知ったことだが、この類の店は「サープラスショップ」と呼ばれるらしい。

 

 

次に向かったのが、グランドキャニオンだった。

 

グランドキャニオンは崇高で気高かった。

 

スーパーに買出しに行くと、デイパックやマウンテンパーカーが売っていた。だが、ファッションというよりも、テントやシェラフと並べてあり、あくまでも登山用品のひとつとしての商品紹介だった。

 

谷底にあるキャンプ施設のファントムランチまで降りていくことに決めた。行き交うアメリカ人は、皆フレンドリーで楽しかった。

 

彼らの格好といえば、ネルシャツにジーンズや、パーカー、デイパック、ワークブーツで、日本で取り上げられるアメリカンウェアのオンパレードだった。少し安心した。

 

グランドキャニオンを出て、フラッグスタッフで一泊した。

 

フラッグスタッフは静かで奥ゆかしく、良い場所だった。

 

ここでも、サープラスショップで501や霜降りのスウェットシャツを見つけることができた。隣には、やはりバケツやロープが置いてあった。

 

 

オクラホマで一泊し、インデアナポリスで2泊したあと、イリノイ州に入る。

 

 

本当のことかどうかは分からないが、「アメリカの大手新聞社の新人教育では、『イリノイ州の主婦に読ませるように記事を書け』とのアドバイスを上司から受ける」と本で読んでいたため、試しにイリノイの小さな町に宿泊しようと思った。典型的なアメリカの家庭が、イリノイにあるという考え方だ。インディアナからイリノイにかけては、アーリーアメリカン調の白い家が並んで風光明媚だった。

 

そこで選んだのが、Rock Fallsだった。

 

 

その理由は、歌手の竹内まりやが、留学機関であるAFS(アメリカンフィールドサービス)を通じて、高校留学した町であったからだ。私は彼女の音楽性を買っていて、その留学経験が後の音楽活動に大きな影響を与えていると思っていた。このため、一度訪れてみたいと思ったのだ。

 

グレイハウンドの停留所から少しはなれたところにあるモーテルに泊まった。隣にあるイタリアンカフェに行くと、女主人がこう尋ねた。

 

「あなた、ヒッチハイカーなの?」

 

どうやら私の服装を見て、ヒッチハイカーと思ったらしいのだ。

 

 

私の服装といえば、ウールリッチのマウンテンパーカー、その下にカーハートのブラウンダックのジャケット、霜降りのスウェットシャツ、リーバイスの501、レッドウィングのポストマンシューズだった。

 

私にとっては最高に「ヒップ」な格好だった。

 

 

もちろん、今でもその服装は「悪くは無い」と思う。

 

 

ところが、イリノイの主婦は、私の服装をヒッチハイカーと判断した。

 

 

今度は、映画館がある街の中心部に向かった。

 

スポーツショップを訪ねた。記念にスウェットシャツを買ってRock Fallsとプリントしてみたいと思ったのだ。店主は、ショッピングモールにある店に行くようにアドバイスしてくれた。

 

ショッピングモールは、現在の大型店舗とうものではなく、小さなパパママショップが寄り集まった雰囲気の良い場所だった。

 

紹介してくれた店には、Tシャツ類がたくさんあった。女主人に尋ねると、ロゴをプリントできるから、好きなスウェットシャツを探しなさいということだった。彼女は、お勧めの無地の品物を何枚か出してくれた。

 

どれも、パステルカラーだった。

 

私は棚から、霜降りのスウェットを選んで、プリントを頼んだが、彼女はとても嫌な顔をした。

 

私は、その反応にとても驚いた。

 

霜降りのスウェットは、運動するときに、文字通り汗をかくための専用の服装だということを後で知った。むしろ、パステルカラーのスウエットの方がファッション性が高かったのだった。

 

その後、中心部に向かう。なぜか中心部に、鉄工所があった。そこで働く労働者たちが小休止で、通りに面したカフェに並んでいた。何と、彼らの格好は、日本で流行していたものだった。とてもカラフルなワークシャツに、ペインターパンツや良く色落ちしたジーンズ、ワークブーツ。とくにワークシャツの色合いは、素晴らしいセンスだった。日本の古着屋でも、見つからないような良い色使いだった。

 

その後の街で通りかかった工事現場でも、同じような光景に出くわした。

 

そうだ。

 

 

日本でヘビーデューティーと言われているファッショナブルな服装は、登山着であり、ワークウェアであり、それ以上の意味も、それ以下の意味もなかった。

 

普通のアメリカ人にとっては、そういった格好が、あまりにも陳腐であり過ぎて、ファッション性を連想する対象であることはなかったのだ。

 

 

ロックフォールズを出てグレイハウンドでシカゴに向かう。食事休憩で泊まった食堂では、周辺の農家のひとびとが集ってコーヒーを飲んでいた。50歳から70歳くらいまでの白人男性たちで、日本ではオシャレに敏感なひとたちがかぶっているキャップを身に付けていた。

 

70歳と思える老人は、ヒッコリーストライプのカバーオールに、見事な配色のワークシャツ、ワークブーツを身に付けていた。

 

まさにリアルアメリカだった。

 

 

だが彼らは、自らの格好をファッションだとは思っていなかったのだと思う。

 

 

その後、ニューヨークで知り合った英国人と話しをしたときに、リーバイスの話題になったのだが、知識の豊富さに驚いた。ロンドンでもリーバイスのビンテージは相当な値段だと言っていた。彼は、日本人の間でも、リーバイスなどのビンテージジーンズが高値で取引されていることを知っていた。アメリカ人たちが、その本当の良さを理解していないということで二人の意見は一致した。

 

ニューヨークでは、古着屋を見つけたがなかなか見つからなかった。グリニッチビレッジの近くで一軒だけようやく見つけることができた。日本の古着屋とは違い、90%以上の商品が50年代の洋服だった。

 

これも後で分かったことだが、日本の古着屋というのはアメリカでは存在しておらず、日本で古着と言われているものは、教会のバザーや自宅のガレージセール、それにスリフティーショップといわれる店で売られているようだった。スリフティーショップというのは、今の日本でいうリサイクルショップのようなものらしい。

 

つまり、日本で売られている古着はビンテージクロージングを意味しなかったのだ。旅行当時の1987年では1970年代の衣服も古着に相当するわけだが、そういった概念が存在しなかったようで、路面店にもスーパーにも売っていなかった。

 

 

もちろん、アメリカでも好事家が一部に存在し、そういった取引をしていなければ、日本での古着ビジネスも存在しなかったはずである。ところが、大きな都市には、目だった古着を扱うスポットはなかったのだ。

 

 

ニューヨークでは、ロックフォールズと同じ格好をした。

 

ソーホーやグリニッチビレッジがあるので、ここならば、理解があると思ったからだ。

 

 

セントラルパーク近くの屋台のホットドック店でホットドックを買おうとしたときのことだ。店主はヒスパニックだった。数人が並んでいたが、私の番になると、彼はとても嫌な顔をした。しかめっつらをして、口も利かずにアゴで合図をした。これも後で分かったことなのだが、浮浪者が私と同じような格好をしているようだった。

 

この直後に、ブレザーにカシミヤのセーター、チノパンツ、ローファーを着ていくと、店主は「サー」付けして私を歓待したのには驚いた。

 

近くの上品なカフェに入ると、ウエイターにアゴで案内されて、店の奥にあるゴミ箱の近くの席に通された。この時にも、あとでブレザーを着用していくと、通りの面したガラス窓の良い席に案内してくれた。

 

服装でまったく扱いが違ったのだ。

 

そのとき、ふと思ったのが、私の肌が浅黒いからだろうかということだった。

 

 

だが、ジョージタウンでのパーティーで知り合ったテキサス出身の白人男性も、着てきた洋服が場違いだったのでワシントンDCでは疎外感を受けたと言っていたのを聞くに及んで、やはり服装の問題ではないかと思った。

 

彼はウエスタン調のワークシャツを重ね着して、ジーンズとスニーカー姿だったのだ。