今日はずっと、モダニズムのデザインの特徴って何だろうか?と考えていた。
スカンジナビアデザインを考えるうえで避けて通れない要素だと思うからだ。
単なる脱線か、もしかするとそうかも知れない。
すでに言い尽くされているコルビュジエとミースについて考えるのも悪くはない。
コルビュジエが理論展開して実践した、モジュール(モジュロール)は、近代建築の基礎となり、後世の建築家に多大な影響を与えた。モジュールは数学的な合理性と造形美の融合を可能にしたと思う。
モジュールは簡単に言えば、296cm(183cm×1.618)の長さを一単位として、黄金比によって並べていくことで立体平面を形成し建築物を作る基になる概念だ。183センチはイギリスのアングロサクソン系男性の平均身長で、彼らが手を伸ばしたら296cmになるという具合なんだ。
もっと簡単にいえば、単一のブロックの無数の組み合わせと考えれば良いと思う。もちろん、建築学的にみると、それは正解ではないだろうけれど。
一方、ミースは部材の共有化を図った。彼の建築では、どの建物の階段にも共通の工業製品を使うなど、パーツによるデザインの統一を図ろうとした。
それで、突然、コルブとミースを引き合いにだしたのだけれど、理由はこうだ。
モジュールも、部材の共通化も、コンクリート(オーギュスト・ペレが始祖だが)も、ガラスのファサードの高層ビルも、すべて現代の産業システムに組み込まれている。丸の内や霞が関のビル群を見ても、ハウスメーカーの建築現場を見ても、コルブがあって、ミースがある。
果たして、二人はシステムを作ろうとしたのだろうか?
確かに、コルブや、ミース、それにグロピウスらが関係した「インターナショナルスタイル」は、システム構築といえる試みだったのかもしれない。だが、それは建築様式の統一であり、大量消費を名目とする産業システムへの寄与が目的ではなかったと思う(後日談:建築家の藤森照信氏の説では、ミースは産業システムに関心があったという)。
それ以前の問題として、コルブやミースが発案した、モジュールも、部材の共通化も、すべてが前衛だったということが重要なんだ。
イノベーション?いや、それでは言葉が軽すぎる。アヴァン・ギャルドだ。
ただ、前衛的な事象がひとたび認知されると、人類全体のシステムに組み込まれて、固有のシステムを形成することになるのは、芸術や産業、文学、学問では史的な事実なんだ。前衛は本来は非生産的なものだが、全体のシステムに組み込み、反復を繰り返すことによって、生産性を発揮するようになる。
文字通りの生産ではなくても、影響を受けた人物たちが、多大な利益を社会全体から獲得するといった具合さ。それはシステム以外の何物でもない。
アアルトに戻ろう。
アアルトの評伝である大著「白い肌」の著者、ヨーラン・シルツ氏が1972年、アアルトにインタビューしたものを抜粋してみたい。
「…もしインターナショナリズムという言葉を使うなら、私たち(フィンランド)の地域的な背景が、より大きな共同体、つまりインターナショナリズムのバックボーンとなるべきものだ。」
―では、あなたは国際建築に対して、私たち(フィンランド)の状況に根ざしたフィンランド的なものを特別に付け加えることができたと考えていますか?
「その解釈に対しては何も異論はない。まったくその通りだ。歴史的に国家間には絶え間ない交流があった。フィンランドは主に長い間、それを受け取る、最後の端っこだった。リューベックから装飾壁を、ストックホルムから墓石を、というように私たちの国フィンランドは芸術を輸入してきた。そのことは国が貧しい状況では非常に異議があった。しかし、今では、その時代を終えた。私は自身を文化の輸出者だと考えているんだよ」
そうなんだ。このことだよ。
私がスカンジナビアンモダンに、エスニックな要素を感じるのは。
すべては、アアルトの言葉によって裏付けられるんだ。
アアルトは、カンチレバー構造などバウハウスからの影響を大きく受けているし、アアルト=スカンジナビアモダンとはならない。
そういったことは、承知のうえで言っているのだ!
アアルトのプロダクツはアルテックで量産化されているけれども、それはフィンランド的な物以外の何物でもないんだよ。
それが大事なんだ。
彼のデザインは、産業システムの中にあっても、そこに埋没していない。むしろ、システムを利用さえしながら、標準化というシステムの罠(わな)を超越しているんだ。