ジレッタント 彷徨と喜憂

物見遊山が好きです

スカンジナビアデザインのこと⑥

スウェーデンの家具のことについても書かなければならないと思っていた。

 

最初に買った北欧のイージーチェアは、ブルーノ・マトソンのミナだった。新宿にあるビームスJapanで購入した。1998年の秋だった。

 

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ただ、このプロダクツの良さが分かったのは、つい最近のことだ。段々と理解できたという感じだった。

 

ビームススウェーデンアスプルンドのプロダクツを扱い始めたのが、確か2000年くらいだったと思う。専属デザイナーにトーマス・サンデルがいて、彼の作品が並んでいた。その後、彼のサマーハウスがエルデコ日本版に公開された。

 

これは私の興味をとても引いたんだ。

 

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それまで注目していた若手のデザイナー(これは大御所ではないという意味だ)とは異なったシンプリシティを持つ意匠だった。

 

だが、そのなんて言うのか、文脈=コンテクストがつかめなかった。どういう経緯で、彼のプロダクツが生み出されたのか、その歴史的な位置づけを知りたかったんだ。

 

デンマークとも違うし、フィンランドとも違う。

 

今では、ネットで調べると情報が得られるけれど、当時はほとんど情報がなかったんだよ。

 

ここ2~3年の間で注目しているのは、スウェーデンのMetropol Auktionerなどのサイトにアップされているアンティークのプロダクツだ。イギリスやフランスとも違う質感があり、とても惹かれる。

 

それで、ああいった、シャビーでラスティックな感じがある、アンティークのプロダクツから派生したデザイナー家具がスウェーデンにはあるのではないか、と思い始めたのが、ここ2~3年のことなんだ。

 

その延長上に、トーマス・サンデルのプロダクツが位置づけられるのではないかと思っている。

 

もちろん、デンマークのコーア・クリントやオーレ・ヴァンシャーなどが、古典的な家具のリデザインを試みているのは有名だけれど、スウェーデンでは、また違ったニュアンスを持ってリデザインが行われていると思った。

 

話が方々に飛ぶけれども、Yngve Ekstrom(発音が分からない)のArka chairについて言えば、やはりスウェーデンのアンティークの系譜に連なっていると思う。

 

 

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Arka chairを初めて見たのは2000年のことだ。

 

スウェーデンのサイトzimmerdahlとWigerdals Varldだった。どちらが先か覚えていない。すぐに売れ切れてしまった。

 

Arka Chairは、例外だった。直ぐに理解ができた。イギリスやアメリカのスポークチェア、ウィンザーチェアをたくさん見てきたからだろう。

 

直ぐに買いたかったが、資金的に苦しかったので見逃してしまった。そしてそれ以来、しばらくブックマークしているサイトには現れなかった。

 

現物を見たのは2002年か2003年だったと思う。南青山のイデーに偶然ディスプレイされていた。

 

見事なリデザインだった。

 

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それで、こうしたスウェーデンのアンティークプロダクツの系譜というものを辿ると、18世紀末のグスタヴィアンスタイルに連なるかもしれないと思ったのが一昨年のことだった。

 

同時期に日本版のエルデコでも取り上げていたらしいけれど、私が見たのは、女性雑誌のSPURの昔(2000年)のインテリア集だった。

 

スウェーデン系のフランス人ら2人のコーディネートが取り上げられていて、「(2000年当時の)パリで注目を集めているスタイル」と書いてあった。わざわざスウェーデンで買い付けてパリに運んだ物だった。

 

装飾を極力排した滑らかな曲線。

 

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このSPURの写真では南フランスに特有の様式美もうかがえたので、本当のグスタヴィアンスタイルかどうかは疑問があるが、まあとにかく、これでスウェーデンのアンティークの源が少しばかり見えてきた。

 

しかし、まだスウェーデンの、この系譜のモダンデザインは分からないことが多いし、生まれて初めて見る家具も多い。

 

本当に未知の領域だと思う。

 

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スカンジナビアデザインのこと⑤

今日はずっと、モダニズムのデザインの特徴って何だろうか?と考えていた。

 

スカンジナビアデザインを考えるうえで避けて通れない要素だと思うからだ。

 

単なる脱線か、もしかするとそうかも知れない。

 

すでに言い尽くされているコルビュジエとミースについて考えるのも悪くはない。

 

コルビュジエが理論展開して実践した、モジュール(モジュロール)は、近代建築の基礎となり、後世の建築家に多大な影響を与えた。モジュールは数学的な合理性と造形美の融合を可能にしたと思う。

 

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モジュールは簡単に言えば、296cm(183cm×1.618)の長さを一単位として、黄金比によって並べていくことで立体平面を形成し建築物を作る基になる概念だ。183センチはイギリスのアングロサクソン系男性の平均身長で、彼らが手を伸ばしたら296cmになるという具合なんだ。

 

もっと簡単にいえば、単一のブロックの無数の組み合わせと考えれば良いと思う。もちろん、建築学的にみると、それは正解ではないだろうけれど。

 

一方、ミースは部材の共有化を図った。彼の建築では、どの建物の階段にも共通の工業製品を使うなど、パーツによるデザインの統一を図ろうとした。

 

それで、突然、コルブとミースを引き合いにだしたのだけれど、理由はこうだ。

 

モジュールも、部材の共通化も、コンクリートオーギュスト・ペレが始祖だが)も、ガラスのファサードの高層ビルも、すべて現代の産業システムに組み込まれている。丸の内や霞が関のビル群を見ても、ハウスメーカーの建築現場を見ても、コルブがあって、ミースがある。

 

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果たして、二人はシステムを作ろうとしたのだろうか?

 

確かに、コルブや、ミース、それにグロピウスらが関係した「インターナショナルスタイル」は、システム構築といえる試みだったのかもしれない。だが、それは建築様式の統一であり、大量消費を名目とする産業システムへの寄与が目的ではなかったと思う(後日談:建築家の藤森照信氏の説では、ミースは産業システムに関心があったという)。

 

それ以前の問題として、コルブやミースが発案した、モジュールも、部材の共通化も、すべてが前衛だったということが重要なんだ。

 

イノベーション?いや、それでは言葉が軽すぎる。アヴァン・ギャルドだ。

 

ただ、前衛的な事象がひとたび認知されると、人類全体のシステムに組み込まれて、固有のシステムを形成することになるのは、芸術や産業、文学、学問では史的な事実なんだ。前衛は本来は非生産的なものだが、全体のシステムに組み込み、反復を繰り返すことによって、生産性を発揮するようになる。

 

文字通りの生産ではなくても、影響を受けた人物たちが、多大な利益を社会全体から獲得するといった具合さ。それはシステム以外の何物でもない。

 

 

 

アアルトに戻ろう。

 

アアルトの評伝である大著「白い肌」の著者、ヨーラン・シルツ氏が1972年、アアルトにインタビューしたものを抜粋してみたい。

 

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「…もしインターナショナリズムという言葉を使うなら、私たち(フィンランド)の地域的な背景が、より大きな共同体、つまりインターナショナリズムのバックボーンとなるべきものだ。」

 

―では、あなたは国際建築に対して、私たち(フィンランド)の状況に根ざしたフィンランド的なものを特別に付け加えることができたと考えていますか?

 

「その解釈に対しては何も異論はない。まったくその通りだ。歴史的に国家間には絶え間ない交流があった。フィンランドは主に長い間、それを受け取る、最後の端っこだった。リューベックから装飾壁を、ストックホルムから墓石を、というように私たちの国フィンランドは芸術を輸入してきた。そのことは国が貧しい状況では非常に異議があった。しかし、今では、その時代を終えた。私は自身を文化の輸出者だと考えているんだよ」

 

そうなんだ。このことだよ。

 

私がスカンジナビアンモダンに、エスニックな要素を感じるのは。

 

すべては、アアルトの言葉によって裏付けられるんだ。

 

アアルトは、カンチレバー構造などバウハウスからの影響を大きく受けているし、アアルト=スカンジナビアモダンとはならない。

 

そういったことは、承知のうえで言っているのだ!

 

 

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アアルトのプロダクツはアルテックで量産化されているけれども、それはフィンランド的な物以外の何物でもないんだよ。

 

それが大事なんだ。

 

彼のデザインは、産業システムの中にあっても、そこに埋没していない。むしろ、システムを利用さえしながら、標準化というシステムの罠(わな)を超越しているんだ。

スカンジナビアデザインのこと④

1998年に仕事の関係で渡欧が決まり、中央ヨーロッパに行くことになった。

6月のことだった。

 

ドイツ、スイス、フランス、オランダを周ったのだが、ドイツのハノーバーを訪問した時に転機が訪れた。

 

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同行したクライアントとともに、ハノーバーの総合エネルギー公社(当時)の本社に行ってミーティングをおこなった。ミーティングルームは、アールデコ調の内装だったが、建物全体は17世紀の大きな馬小屋を活用しており、レンガ作りのクラシックな佇まいの構造だった。

 

階段を降りたところに、中庭につながる古い大きな窓枠を持った扉があり、その傍らにヤコブセンのアントチェアが置いてあるのに気付いた。

 

その光景を見た瞬間、ヤコブセンのアントチェアを初めて「モダン」だと感じた。

 

古式ゆかしき内装とのコントラストから、ヤコブセンの描いた曲線が斬新に映ったのだろう。

 

北欧のプロダクツを「モダン」だと認識できたのは、これが初めてのことだった。

 

 

 

帰国してほどなく、渋谷のビームスTOKYOに行って、アルテックアルヴァ・アアルトのダイニングチェアを4脚購入した。

 

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脚部の曲げ木が、家の内装に合うと感じた。また、セゾン美術館のアアルト展を見に行ったのも購入の動機となった。そうはいっても、一種の冒険をしていると内心では感じていた。

 

それから、OZONEスカンジナビアコレクションでAXチェアの3シーターを購入した。

 

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訪れたときには、ちょうど新着の商品がたくさん並んでいた。なかでも目をひいたのがAXの3シーターだった。このときは、モダンという感じではなく、野性味のあるクラフト、エスニックな雰囲気さえ感じた。なぜか、胸が異常に高鳴った。

 

佐藤さんは、私が購入の意思を示すと、「見る目が高い」と言った。私はどういう意味か、分からなかったが、1996年に発刊されて話題になっていた織田憲嗣氏の「デンマークの椅子」のコピーを見せてくれた。

 

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AXチェアがペーター・ヴィッツ&オーラ・ニールセンの作とあり、3シーターの写真が写っていた。写真は、目の前のプロダクツそのままを再現していた。とても驚いた。

 

それから、新宿のビームスジャパンで、アルテックのアアルトのスツールを2脚購入した。

 

アルテックのアアルトのプロダクツについては、実はあまり身構えずに、気軽に購入していたが、10年以上経った今でも、バーチの曲げ木を毎日見るたびに不思議な感覚にとらわれる。一体、なぜだろうかと思っていた。

 

フィンランドデンマークを何度も訪問しているTALOの山口さんから聞いた話は興味深い。

 

デンマーク人のデザイナーは、あるイスの原型ができたあとに、何度もリデザインを繰り返して発展させていくが、アアルトは最初の原型で完結させている。しかも、曲げ木の接合という極めてシンプルな方法ですべて良しとしているのは驚きだ」

 

 

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織田憲嗣氏の研究によると、同じフィンランド人のイルマリ・タピオヴァアラはリデザインを繰り返すタイプだったようだが、アアルトに関しては、山口さんの言うとおりだと思う。

 

アアルトのプロダクツを意識したのは、店頭で何度も実物を見たことが大きかったが、もうひとつ要因があった。それは、彼の作品集を見たときに、室内に自作のプロダクツを使っているのを見てとても印象に残ったからだった。

 

建築家のプロダクツは、建築と一体化して見ると良く理解できる。ミースにしろ、コルビュジエにしろ。

 

余談になるが、エットーレ・ソットサスの回顧展を見たときに、会場にソットサスが設計した建築物が再現されていて、そのなかに彼独特のデザインのイスやテーブルなどが配置されていた。それまでとても奇異に感じていたソットサスのプロダクツを再認識する契機となった。建築物とプロダクツが、見事に調和していた。驚くべき発見だった。

 

とにかく、アアルトのプロダクツには不思議な魅力があるのは間違いない。

 

続く

スカンジナビアデザインのこと③

スカンジナビアのプロダクツがある店にはよく通った。

 

ビームスの玉川高島屋店にも行った。ここは店内の内装が変わっていて、オープンなスペースの、一段高い場所に独立したデザインプロダクツのコーナーを設けていた。

新宿店とは若干品ぞろえが異なっていた。

 

この店では、ウェグナーがデザインした3本足の白木のイスが目に付いた。フリッツハンセンの4103か、PPモブラーのプロダクツだったと思う。俗に言うハートチェアそのものか、ウェグナー自身がリデザインしたイスだ。

 

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現品限りということで、今考えると破格の値段だった。その後、廃盤になるという話だった。

 

 

やはり、そこでもイスをずっと観察した。モダンというよりも、エスニックやフォークアートといった言葉のほうがマッチするように感じた。いつも1時間くらいは見たと思う。

 

今では、3本足のタイプのビンテージ品を多く見かけるが、白木の新品の状態で見たのはこれが最初で最後だった。とても鮮明な印象を持っている。

 

また、松屋や新宿小田急ハルクにも、スカンジナビアのコーナーがあったので、何度も訪問した。さすがにデパートだけあって、ザ・チェアやチャイニーズチェアなどウェグナーのラインアップのなかでも高級品をそろえていたので、遠くから眺めていたっけ。

 

私にとっては、もうひとつ重要な拠点があった。パークタワーのOZONEにあるスカンジナビアコレクションだった。

今ではノルディックフォルムと名前が変わっている。当時は確か、3階の隅の目立たない場所にあったはずだ。

 

何回か通っているうちに、佐藤さんという女性の店員と話すようになった。(当時は、インテリアショップの店員は例外なく女性だった。デザインやインテリアは、女性の領域と認識されていたからだと思う。)

 

佐藤さんは、一通り説明したり雑談すると、事務仕事に戻って、「後は好きに見て行ってください」という

スタンスだった。私には、スカンジナビアモダンを理解するまでに相当の労力が必要だったから、私のスカンジナビアプロダクツ選びと佐藤さんの鷹揚さの相性は抜群だったと思う。マネージャーの小林さんも、そのことは承知していてくれた。

 

ある日、訪ねると、白い布が掛かった幾分、大きなものが置かれているのに気付いた。

佐藤さんは、「Ib Kofod - Larsenがデザインした、通称エリザベスチェアのソファ」ということを教えてくれた。復刻版が出ているが、このソファはオリジナルで、ほとんど使われずに布をかけて保管されていたという。

 

とても良い形だった。同じプロダクツは、北欧のサイトをずっと見ているが、出会ったことがない。おそらくは、現在の市場価格(こういった品物は、投資の対象になっているようなので、それなりの店舗で取り扱われる)の10分の1くらいの値段だった。

 

ともかく、この店も重要な拠点となるわけだ。

 

それから、忘れてはならないのが、幡ヶ谷にあったDsain(ディーサイン)。

 

古民家を改造して作った、店内は吹抜けの広々とした空間で、カールハンセンやPPモブラーのウェグナーのプロダクツが多数展示されていた。奥には、メンテナンス工房があったようだ。後になって、1999年だったか、デイベッドなど往年のゲタマの名作が復刻されて店内に並んだ。照明の使い方が効果的で、アトリエか画廊のような趣だった。まさに唯一無二の風情だったが、残念ながら今は青山の近代的なビルに移転してしまった。時代の流れだろう。近代化されたショールームには行ったことがない。

 

 

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丸脚がオリジナルと言われている。現行品の脚は四角。



 

モダンといえば、1990年代は多彩な人材がクローズアップされた時代で、多くのモダンデザイナーが登場した。

 

ただ、モダニズムという意味のモダンではなく、ポストモダンを越えた、いやポストモダンを経過してモダンに回帰した、という意味が大きかったと思う。

 

ジャスパー・モリソン、クリストフ・ピエ、フィリップ・スタルク、アントニオ・チッテリオ、ピエロ・リッソーニ、ロン・アラッド、リチャード・ハッテンなど。

 

彼らのプロダクツがそろっているヤマギワやE&Yにも顔を出したけれど、彼らが表現するモダンは直感的にすぐに理解できた。

 

 

それに比べると、北欧モダンに対する理解はなかなか進まなかった、というのが本当のところだった。

スカンジナビアデザインのこと②

それで、無意識のうちにモダンデザインの家具を探すようになった。当然のことながら、今までの古典的な家具を売り払うことを決めていた。

 

1997年から、インテリア家具を扱う店をいろいろと回るようになったんだ。

 

新宿にビームスジャパンが出来たのはこの年だった。迷わずにすぐに訪ねた。

 

  *ビームスは、設立間もない1977年に訪れて以来、ずっと通っていたから親しみがあったんだ。1977年当時は、現ユナイテッド・アローズの栗野氏や重松氏が店に立っていたのを記憶している。

 

驚いた。北欧家具がたくさん並んでいた。アルテック、マトソンインターナショナル、PPモブラーなどのプロダクツだった。

 

実は、アルテックのアアルトのイスについては、1995年だったか?、渋谷にビームスTOKYOが出来た直後に訪れたときに見ているので、初めてではなかった。

 

けれども、実際のところ、これが「未知との遭遇」となったことは確かだ。

 

 

竹房さんという女性の店員が、丁寧に商品の背景を説明していた。竹房さんは、商品知識が豊富で、背景や構造などの説明をしてくれた。

 

そのうち、クリエイティブディレクターの南雲さんが店頭にも立つようになったので、顔見知りになった。でも、南雲さんの話は、当時の私には難しすぎて、知らないデザイナーや建築家の話がどんどん出てきて、ついていけなかった。マニアック過ぎたんだ。当時の私にとっては。

 

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話が脱線するけれど、商品の背景知識についていえば、それから3年くらい経ったころ(2000年)に、南雲さんは「商品知識はおろか、デザイナーの名前さえ知らずに、無意識に買っていってもらうことが理想」と話すようになった。これについては、柳宗理らが唱えるアノニマスデザインの影響を受けていることに後で気付いた。

 

それで去年、つまり2010年に、厚木のTALOのオーナーである山口さんと、スカンジナビア家具について談議したことがあって、山口さんは、「今までは、アルニオやヤコブセンなどの偉大なデザイナーというだけで、皆が黙って購入していたが、ここ数年は、そうしたマーケティングが不可能になってきた」と言うんだ。つい最近までまったく売れなかったアアルトのアルテックの年代もののスツール(シャビーな塗装がはがれたようなタイプ)が捌けるようになった。「皆、アアルトをそれほど知っている訳ではないのに」と語るんだ。

 

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同じ年の2010年、Wallpaper創刊者のタイラー・ブリュレのインタビューをビームスのウエブサイトで読んだら、「これからは、商品のバックグラウンドが重要になる」と言っていたんだよ。つまり、商品がどのようなバックグラウンドを持っているか、それを消費者にどうやって説明するか、が大事だというんだ。

 

 

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ここらへんは、とても興味深いテーマだよね。けれど、ここらへんで止めておく。本題から外れているからね。

 

 

とにかく、北欧モダンとの出合いは1997年のことだった。

 

それで、ここがポイントだ。

 

「北欧家具の、どこがモダンであるのか」。正直言って良く分からなかった。

 

ウェグナー、ヤコブセン、アアルト、マットソン。本当に理解するのが難しかった。

 

「クラフト」という面では理解できたが、「モダン」だと言われても理解できなかった。

 

カッシーナに行ってコルビュジエのスリングチェアを見たほか、knollのミースやブロイヤーのプロダクツも見たけれど、「モダン」だと感じることができた。

 

Ozoneスカンジナビアコレクション(1997年当時はデンマークコレクションだったと思うが、記憶が曖昧だ)にも行っみた。ケアホルムの白木のイスなど、珍しいコレクションがたくさんそろっていた。

 

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だが、モダンであることが理解できなかった。

 

翌年1998年に入ると、ビームスジャパンの売り場担当が、山村さん(現ビームスプレス)に替わった。彼女は新卒のフレッシュマンだった。

 

何回も通って、1時間ばかり北欧プロダクツを観察していた。理解するためだった。

 

さすがに、商売っ気のない南雲さんも、「皆、値札を見て、すぐに買って行きますよ」と購入を勧めるようになった。

 

チャイニーズチェアをはじめとする、PPモブラーのウェグナーの一連のプロダクツが、当時の市価の20%オフになっていたため、価値を知っていて好きな人はすぐに買っていくというわけだった。20%オフは前例がないことだったようだ。

 

それでも、購入を決めなかった。

 

何度も言うけれど、理解ができなかったからだ。

 

 

まあ、そうは言っても、良い時代だったのか、何回顔を出しても、門前払いという仕打ちは受けなかった。ビジネスライクではなかったんだろうね。きっと。

 

 

山村さんは、いろいろと商品を紹介してくれたし、南雲さんも、「この間、アルテックの社長が来て、アアルトのソファの販売が予想以上に好調なことを知って、とても喜んでいた」なんて興味深い話を披露してくれた。

 

シボネやホテルクラスカのプロデュースを手掛けた、立川裕大さんが当時青山にあったショップiOに勤務していて、店頭で雑談をしたときに、「ビームスが北欧家具をやるとは。やられたという感じだ」と言っていた。立川さんはメディアでも、同じことを言っていた。インテリア業界では、ショッキングなことだったんだろう、きっと。

 

 

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その直後、立川さんは、ショップiOで、天童木工のブルーノ・マットソンシリーズを扱うようになった。

 

ショップiOは、もともと、名門家具のカタログが大量に収納されている書棚から、気に入ったものを取り出して閲覧し、定価の10~20%オフでプロダクツを取り寄せられるという画期的なビジネスを展開していた。

 

そのカタログの中には、フリッツハンセンもあった。立川さんにしてみると、皮肉な結果だったと思う。

スカンジナビアデザインのこと

「昔はこうだった、ああだった」と言った時から、すべての終わりが始まると考えているから、昔を振り返って語るのは嫌なんだ。

 

でも最近方々で、無理解から来る誤解が生じてしまって、本当に辟易することが多くなった。

 

だから、初めてスカンジナビアデザインについて書くことに決めた。

 

 

 

文中の人物は最早私のことなどは覚えていないと思う。けれど、なるべく実名で書くことにしたい。その方が臨場感があるからね。

 

 

 

 

1997年までの間、私にとっての家具等のインテリアデザインはロココをはじめとする装飾に尽きた。

 

もちろんビクトリアン調や、アールヌーボーアールデコも理解は可能だった。ただ、ユーゲントスティルやアーツ&クラフトは後になって知った。

 

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1997年というのは実家を新築することを決めた年だ。それで、家具類をすべてそろえる必要が生じたんだ。

 

建築家が積極的に住宅建築を手掛けだしたのは1999年あたりだったから、建築家と工務店の組み合わせなんて普通の家庭では考えつかない時代だった。だから、自然な流れとしてハウスメーカーを選んだ。

 

それで、真っ先に購入したのが、クラシック調の年代物の、イギリスの一人掛けソファとイタリアの一人掛けソファだった。イタリアのソファは牛革製で、木彫りの象嵌が施されていた。イギリスのソファは、緑のベロアの生地で、やはり装飾的なプロダクツだった。両方とも猫脚だった。

 

今でも両方のソファを思い出してみると、「良い品だった」と感じるんだ。

 

そして、イギリスのアンティークのサイドボードも購入した。これにも装飾が彫られていた。

 

あとは、アジア家具をアクセントに買った。その当時は、クラシックな家具とアジア・アフリカ家具を合わせるのがヨーロッパのインテリアデザイン雑誌で流行っていた。もちろん、その影響を受けたんだ。

 

日本には、床の間以外に、室内を装飾=「デコレート」するという文化がないからね。洋風の家を建てたからには、欧米を手本にする以外に方法はない。

 

日本の住宅文化は、とても簡素だから、装飾という概念はほとんどないんだ。今でも、日本のインテリア雑誌を見ると、文化の壁を感じるよ。いい意味でも、悪い意味でもね。

 

それはともかく、家が完成してクラシックな家具を据えてみた。とても満足したのを覚えている。

 

けれど1ヶ月ほどしてから、気付いたんだ。家具に施された古典的な装飾が、室内の簡素な内装から、はく離されていくのを。二つが離れていくのを感じた。結局、まったくマッチしない、と感じるようになったんだ。

 

どういうことが起こっているのか、自分でも分からなかった。

 

あとで分かったことだけれど、家を建てたハウスメーカーは、バウハウスの研究家を社内で養成しているうえ、日本の伝統建築と日本のモダン建築を融合させようという意図を持って、モダニズムを再現しようとしていたみたいだった。

 

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1997年は、メンフィスなどのポストモダンの影響が残っていたけれど、ジャスパー・モリソンなどシンプリシティを旨とするデザイナーが台頭していた時代でもあった。

 

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モダニズムの中に装飾家具っていうのは、やはり無理があるんだよ。古典的なアパートメントやメゾネットに、プルーヴェやコルビュジエ、ミース、スタルクという写真は、当時でも見たことがあるけれど、モダニズム建築の中に、装飾家具っていうのは、やはりあり得なかった。

 

モダニストコルビュジエが「脱装飾」を図ったことは、彼の自伝や評伝を読めば、必ず出てくるし。

 

まあ、とにかく、とても居心地が悪かったのを覚えている。

 

気に入った家具に囲まれているのに、気分が優れないっていうのは最悪だったよ。

茶房・読書の森

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昨年の夏に初めて訪ねた長野県の小諸市にある喫茶店

 

小諸城址から、坂を下って橋を渡る。

 

山を越えると、目の前に広がる丘を通る一本の道がある。

 

両端は、草原(だったと思う)。

この道を抜けると一軒家が見えてくる。

 

 

最初は、革マルの根城かと思い(笑)、店番をしていたオーナーの娘さんにいろいろ質問したら、怪訝な顔をされた。

 

帰り際に知ったことだけど、オーナー一家は私と同じ苗字だった。きっと遠い親戚でしょう。

 

とても不思議な空間だ。歴史書から小説、絵本まで壁面にたくさんの本が並んでいる。

 

ビートルズのポスター。

 

新聞の切り抜き。

 

 

 

 

 

 

長野へは毎年旅行に行っているが、楽しみな場所がひとつ見つかり、良かったと思う。

UTAU 大貫妙子×坂本龍一 その2

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大貫妙子が「cliche」を出した1982年、私はまだ18歳だった。

 

レコードしかなかったときで、1000回くらい聴いたほどの愛聴盤だった。

 

なかでも好きだった曲が、「風の道」と「夏色の服」だった。

 

とにかく大貫妙子の歌声は素晴らしかった。

 

今でもときどき聴くほど、clicheは陳腐化しない力を持っている。

 

両方の曲とも、フランス人の著名音楽家である、Jean Musyがアレンジしている。この静謐で、叙情的なアレンジは当時のポップス、いや現代でも傑出した出来栄えだ。クラッシック的な素養に加え、フランスのフォークロア音楽などの要素を吸収していないと、不可能なアレンジだと思う。

 

A面が東京録音でB面がパリ録音。

 

東京録音は坂本龍一が担当していた。当時の坂本龍一については、70年代からすでに、キリンやYMOの1stアルバムで注目していた。

 

だから、坂本龍一が、「風の道」と「夏色の服」をアレンジしたらどうなるだろうか、ということを1982年以来、ずっと考えていた。

 

 

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このCDには、その2曲が収められていた。

 

Jean Musyの「夏色の服」は、ピアノのピアニッシモから始まり、消え入りそうな、とても情感の溢れた繊細な導入から入る。それに続くストリングスの叙情的な楽想が、ドラマチックで、起伏に富んだ展開だ。

 

新録のUTAUは、坂本龍一のピアノ伴奏だけだ。

 

Musyのマッシブなアレンジを排するかのように、淡々と演奏する。とてもシンプルだ。

 

ひとつの音を取ったら、音楽のすべてが崩れるような簡素さ。

 

最初は、何度も聴いたMusyのアレンジの豪華さが脳裏にあったので、正直なところ物足りなさを感じた。

 

けれども、聴けば聴くうちに、理解できるようになった伴奏。そういう簡素なピアノは、本当は演奏するのが難しいと思う。

 

あえて音数を減らして、多くを「弾かない」という行き方がある。世阿弥が言うところの「せぬことこそおもしろき(興味深い)也」を体現している。それは、もうひとつの曲である「風の道」にも感じることだ。

 

逆説的だが、われわれは、音楽から離れた音楽的な空間を想像することができるようになる。

 

大貫妙子の歌は、clicheの時よりも、はるかに深みを増している。

 

年老いたものではなく、「声」そのものが語る力を備えている。

 

「UTAU」の中の唄は、歌謡というよりも、楽器を使って演奏するのに適した曲が多い。

 

難解な曲を、さらりと歌う姿はとても魅力的だ。

 

恐らくは自発的なプロジェクトである、今回の取り組みは、近年の音楽界へのアンチテーゼとしてうつる。

 

吉田美奈子の才能を損ねかけた、所属レコード会社のavexが、このCDをリリースしたのは、極めて暗示的だ。

 

 

安易な続編などを制作しないように祈るばかりである。

UTAU 大貫妙子×坂本龍一

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先月に発売すると知って、ものすごく楽しみにしていたアルバム。久々に発売を心待ちにするポップスのCDだった。

発売当日の午前に購入し、午後は3時間ほど聴き込んだ。2枚組とはいえ、ジャズや即興意外で3時間聴き込んだのは20年ぶりくらいではないだろうか?

陽も落ちる6時くらいになると、西に沈む太陽を見た。

雲がところどころまだらになった夕焼けだった。

いてもいられなくなって、外に出た。

近くの公園へ向かう。手には写真機(IXY70)を持っていた。

以前から、惹かれていた、公園の向こう側にある教会の十字架。

日が暮れると、十字架は灯りに照らされて、夕闇に浮かぶ。

写真を撮りたい衝動にかられたのは、生まれて初めてだった。

本業のブログの写真は、読者サービスのための義務感100%の作品ばかりで、仕方なく撮っているのが本当のところだ。前に作っていたブログも写真を撮るのが嫌で、最後の方は作風が荒れていた。

写真機を持ちながら、自分でも驚いていた。

十字架には灯りが点いておらず、撮るのを断念したものの、あの写真を撮りたいという衝動は何なのだったか?

これが音楽のもつ力なのか?

小山敬三

紅浅間

 

 

 

小山敬三美術館の外観

 

カテゴリをアートにしちゃったんだけれど、小山敬三って「アート」の範囲なんだろうか、と考えたが、そもそもカテゴリーを芸術とやっちゃうと仰山なんだ。

 

まあ、それは置いといて。

 

紅浅間、いいよね。小山画伯の。

 

最初に見たのは、15年くらい前だったか、いやもっと前だったと思う。

 

その時は、いや~な感じがした。洋画なのに日本色を出しているところが、わざとらしく感じられたのだ。素人目には。金箔の使い方が日本画のようだしね。

 

ここらへんは、磯崎新武満徹たちが、白人やユダヤ人によるジャポニズム的な日本観に徹底して対抗していたことに近い感覚かもしれない。

 

でも、10数年前から毎年、長野の小諸市にある小山敬三美術館に通って見ているうちに、紅浅間など浅間シリーズが最高だと思うようになった。

 

金箔の使い方なんて、すごいよ!

 

胸が躍るんだ。毎年、美術館で見ていると。

 

ブルーズ・ド・ブルガリ

 

 

 

この絵は、愛娘(養女だったと思う)を描いた作品。肖像画はどれも品があって、とても西洋的だ。デッサン画を見ても、とてつもない力を感じる。

 

基本的には、パリで修行して、サロン・ドートンヌ入選たから、オーソドックスを旨とする王道の西洋画家だと思う。

 

でも、やはり浅間が良いんだよ。水墨画の素養もあるので(なんて偉そうに言う)、画伯は西洋画と日本画の融合を相当研究したはずだ。

 

でも、さらっと描いているように感じる。さりげないんだな。

 

これがすごい。

 

 

「紅浅間」の画像は、日動画廊のホームページからコピペした。日動画廊は、地下で画家を雇って贋作作っていたらしいけど、これは違うだろう。さすがに。

 

小諸の小山敬三美術館は、村野藤吾の設計。楚々とした、たたずまいで、趣があって好き。